| 訓読 |
3907
山背(やましろ)の 久迩(くに)の都は 春されば 花咲きををり 秋されば 黄葉(もみちば)にほひ 帯(お)ばせる 泉(いづみ)の川の 上(かみ)つ瀬に 打橋(うちはし)渡し 淀瀬(よどせ)には 浮橋(うきはし)渡し あり通(がよ)ひ 仕へまつらむ 万代(よろづよ)までに
3908
楯並(たたな)めて泉(いづみ)の川の水脈(みを)絶えず仕へ奉(まつ)らむ大宮所(おほみやところ)
| 意味 |
〈3907〉
山背の久邇の都は、春になると花がいっぱに咲き乱れ、秋になるともみじが色美しく照り映え、都が帯としておられる泉川の、上流の瀬には打橋を架け渡し、淀んでいる瀬には浮橋を架け渡し、いつも通ってお仕え申し上げよう。万代の後までも。
〈3908〉
泉の川の水脈が絶えないように、絶えずお仕え申し上げよう、この大宮所よ。
| 鑑賞 |
題詞に「三香原(みかのはら)の新しき都を讃(ほ)むる歌」とある長歌と反歌。「三香原の新しき都」は、久邇京のこと。久邇京は、今の京都府木津川市加茂地区に位置し、低い山々に囲まれた瓶原(みかのはら)盆地に中心を置いていました。東西に木津川(泉川)の清流が流れる景勝地でもあります。天平12年(740年)8月に起こった藤原広嗣の乱に動揺した聖武天皇は、10月に突如東国巡行を思い立ち、諸国を彷徨した後の12月、橘諸兄の進言によって久邇に新京を定めました。天平13年正月、天皇はこの宮で朝賀を受けており、この歌は反歌の左注によると、その直後の2月に作られたものです。閏3月には五位以上の官人が意のまま奈良に居住することを禁じ、久邇京への移住を命じました。8月に平城の東・西市を久邇京へ遷すなどの整備を進め、11月になって天皇は新都を「大養徳久邇大宮(やまとのくにのおおみや)」と名付けました。
歌の作者は、右馬頭(みぎのうまのかみ)境部宿禰老麿(さかひべのすくねおゆまろ)。右馬頭は、右馬寮の長官で従五位相当官。右馬寮は、左馬寮とともに宮廷に献上される馬を管理する官庁。境部宿禰老麿は伝未詳で、『万葉集』にはこの1首のみ。
3907の「春されば」は、春になると。「花咲きををり」は、花が枝もたわむほどにいっぱい咲く意。「帯ばせる」は「帯べる」の敬語で、都に添って流れている川を、皇居を尊ぶ意で擬人化して言ったもの。都や山をめぐって流れる川を歌うのは、対象を讃美するする一つの型になっています。「泉の川」は、木津川。「上つ瀬」は、上流の瀬。「打橋」は、板や材木を渡しただけで、架け外しが自在にできる橋。「淀瀬」は、水が淀んで流れのゆるやかな瀬。「浮橋」は、舟や筏を浮かべ、その上に板を並べた橋。「あり通ひ」の「あり」は、継続して、の意。「奉る」は、謙譲の補助動詞。
3908の「楯並めて」は「泉の川」の枕詞。楯を並べて弓を射(い)ると続き、「泉の川」のイに転じたもの。「水脈」は、水の勢いよく流れる川筋。「大宮所」は、大宮のある所の意で、大宮そのものをいう語でもありますが、大宮を直接に指すのを憚って、間接に言っているものです。なお、五位以上の官人がこの種の讃歌を作るのは異例とされ、何らかの事情があったようですが不明です。同じ頃に田辺福麻呂が詠んだ讃歌が、巻第6-1050~1058にあります。

木津川(泉川)
木津川は、総延長約90kmの淀川水系に属する一級河川。『万葉集』では「泉川」「泉河」「泉之河」「伊豆美乃河」「出見河」「山背川」「山代川」などと表記され、『日本書紀』崇神天皇の条に、「大彦命(おおひこのみこと)と武埴安命(たけはにやすのみこと)の両軍が川を挟んで挑んだので、時の人は改めて伊杼美河(挑:いどみがは)と名付けた」とあり、この名が訛って「泉川」になったという説があります。
木津川は、青山高原に端を発し、伊賀市東部を北流、伊賀市北部で柘植(つげ)川、服部川と合流して、京都府に入るあたりから河谷を形成し、鹿背山の北裾の谷あいから南山城盆地に流れ出し、木津付近で北に流れの方向を変え、同盆地を南から北へ貫き、八幡市付近で宇治川、桂川と合流して、淀川となって大阪湾に注ぎます。現在の木津川は、上流にダムや発電所が造られ、著しく水量が減っていますが、かつては流れの激しい川だったようです。
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