| 訓読 |
3922
降る雪の白髪(しろかみ)までに大君(おほきみ)に仕へまつれば貴(たふと)くもあるか
3923
天(あめ)の下すでに覆(おほ)ひて降る雪の光りを見れば貴くもあるか
3924
山の狭(かひ)そことも見えず一昨日(をとつひ)も昨日(きのふ)も今日(けふ)も雪の降れれば
3925
新しき年の初めに豊(とよ)の年しるすとならし雪の降れるは
3926
大宮の内にも外(と)にも光るまで降れる白雪(しらゆき)見れど飽かぬかも
| 意味 |
〈3922〉
降り積もる雪のように、真っ白な白髪になるまで大君にお仕えさせていただいたことは、恐れ多く尊いことでございます。
〈3923〉
天下を覆い尽くして降り積もった雪のまばゆいばかりの光を見ると、ただただ貴く思われます。
〈3924〉
どこが山の谷間とは見分けられないほど、一昨日も昨日も今日も雪が降り続いている。
〈3925〉
新しい年の初めに、今年の豊作を告げる印に相違ない、この降り続く雪は。
〈3926〉
宮殿の内にも外にも光輝くように降り続く白雪は、見ても見ても飽きることがない。
| 鑑賞 |
聖武天皇の天平18年(746年)正月、平城京では「白雪多(さは)に零(ふ)りて地(つち)に積むこと数寸なり(当時の1寸は3cm)」という状況となり、左大臣の橘諸兄(たちばなのもろえ)が、大納言の藤原豊成(ふぢはらのとよなり)ほか諸臣を引き連れて太上天皇(元正天皇:聖武天皇の伯母)の御在所に参り、雪かきの奉仕をしました。諸兄は、元正太上天皇とは年齢も近く(元正が4歳年長)、親しい関係にあり、藤原氏の急成長に不安を抱いていた点では、同じ政治的立場にあったとされます。雪かきが終わると、ねぎらいのための酒宴が行なわれ、雪を題に歌を詠めとの仰せがあり、3922はそれに応えた歌です。
「降る雪の」は、眼前の雪をとらえて比喩的に「白」の枕詞としたもの。「白髪までに」は、老いて白髪となるまでに、の意。雪の白さをおのれの白髪に重ねて、大君への奉仕の年月の長さを顧みており、「貴くもあるか」の「か」は詠嘆の助詞で、長らく受けた君恩の大きさを恐懼・感謝する意が込められています。窪田空穂はこの歌を評し、「勅題の雪を枕詞にとどめ、一に皇恩の洪大なことを感謝している、老左大臣にふさわしい歌である。緊張を内に包んで、おおらかに、細部にわたらない、品位ある詠み方をしているのも、その心にふさわしい」と述べています。
この時の橘諸兄は63歳。敏達天皇の玄孫 美努王(みぬのおう)の子で、光明皇后の異父兄にあたります。初名は葛城王でしたが、のち臣籍に下り橘宿禰諸兄と名乗りました。天平9年(737年)に都で流行った悪疫で不比等の四子が死没して藤原氏が衰退したのち、右大臣となり政権を握ります。「藤原広嗣の乱」を乗りきり、恭仁京の経営に当たり、左大臣正一位に至って朝臣の姓を与えられるなど全盛を極めましたが、藤原仲麻呂の台頭によって実権を失うこととなります。
諸兄の歌に続き、随伴した諸臣らの詠んだのが3923~3926の4首です。作者は、3923が紀朝臣清人(きのあそみきよひと:当時従四位下)、3924が紀朝臣男梶(きのあそみおかぢ:当時従五位下)、3925が葛井連諸会(ふぢひのむらじもろあひ:当時外従五位下)、3926が大伴宿禰家持(当時従五位下)。3923は、諸臣の筆頭として、諸兄の歌の結句「貴くもあるか」をそのまま受けて諸兄を立てつつ、太上天皇を讃えています。諸兄の歌とこの歌は、ともに直接的に太上天皇の貴さ、ありがたさを歌っているのに対し、それ以下の3首は、雪の多さや縁起のよさ、美しさなどを歌うことで、間接的に太上天皇を讃えるという歌のつくりになっていることが分かります。宮廷の宴における序列や立場、役割をわきまえる峻厳さが窺えるところです。
この時の雪かきの前年(天平17年)に、都は平城京に戻っています。この宴は、家持にとって忘れられない記憶となったらしく、参加して歌を詠んだ人々の名をすべて書きとめています。当時の家持は29歳で、1年前に従五位下に叙せられていたことから、応詔歌を奏することができたのでした。家持より下位の外従五位下の葛井連会の次に家持の歌を記してあるのは、この巻がまさに家持の手記である証しだと考えられています。つまり、敢えて自作を末尾に記したものだといいます。なお、この時の家持は、越中守に任ぜられる直前にあたります。
また、これらの歌群の後に次のようなエピソードが記されています。「但、秦忌寸朝元は左大臣橘の卿謔れて云はく、歌を賦するに堪へずは麝を以ちて贖へといふ。此に因りて黙止をりき」と。つまり、諸兄が、歌を披露しようとした秦忌寸朝元(はだのいみきちょうがん)に対し、「お前は唐人だから、どうせ歌は詠めないだろう。罰としてお前の国で採れる麝香(じゃこう)を献上して埋め合わせをせよ」と言って戯れたため、朝元は黙り込んでしまったというのです。朝元は、山上憶良と共に渡唐した学問僧・弁正(べんしょう)の子にあたります。弁正は唐の女性を妻にし、その間にできた子が朝元です。しかし、唐の法律では、異国人が唐の妻を連れて帰るのを禁じていたため、弁正は仕方なく帰国を諦めて唐に残ります。やがて朝元は、父の故郷日本へ渡り、朝廷に仕えて医術師範、漢籍教授、図書頭などを務めました。そんな朝元に対しての諸兄の件の言動は、いくら戯れだったとはいえ、家持にはショックだったと見えます。
なお、後世の宮廷では、初積雪があると貴族たちが天皇らのもとに参じてご機嫌伺いをするのが恒例になり、平安時代には「初雪見山(はつゆきげんざん)」という年中行事になります。

橘諸兄の略年譜
684年 美努王と橘三千代の間に生まれる
710年 無位から従五位下に
724年 聖武天皇が即位
従四位下に叙せられる
729年 藤原四兄弟の陰謀により、長屋王が自殺(長屋王の変)
736年 臣籍降下、橘諸兄と名乗る
737年 天然痘の流行で藤原四兄弟が死去
大納言に任ぜられる
738年 正三位、右大臣に任ぜられる
740年 藤原広嗣が政権を批判(藤原広嗣の乱)
諸兄の本拠地に近い恭仁京に遷都
743年 従一位、左大臣に任ぜられる
孝謙天皇が即位
藤原仲麻呂の発言力が増す
749年 東大寺行幸に際し正一位に昇叙
756年 辞職を願い出て致仕
757年 死去、享年74
子息の橘奈良麻呂が乱を起こし獄死
【PR】
|
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |