| 訓読 |
3943
秋の田の穂向(ほむ)き見がてり我が背子がふさ手折(たを)り来(け)るをみなへしかも
3944
女郎花(をみなへし)咲きたる野辺(のへ)を行きめぐり君を思ひ出(で)た廻(もとほ)り来(き)ぬ
3945
秋の夜(よ)は暁(あかとき)寒し白栲(しろたへ)の妹(いも)が衣手(ころもで)着むよしもがも
3946
霍公鳥(ほととぎす)鳴きて過ぎにし岡(をか)びから秋風(あきかぜ)吹きぬよしもあらなくに
3947
今朝の朝明(あさけ)秋風寒し遠つ人 雁(かり)が来鳴かむ時近みかも
3948
天離(あまざか)る鄙(ひな)に月経(へ)ぬ然(しか)れども結(ゆ)ひてし紐を解きも開けなくに
| 意味 |
〈3943〉
秋の田の稲穂の状態を見がてら、あなたがいっぱい手折ってきてくれた女郎花ですね。
〈3944〉
女郎花の咲いている野辺を歩き回っていたら、あなたのことを思い出して、回り道して来たのです。
〈3945〉
秋の夜の明け方は寒い。妻の袖を重ねて着る方法があればなあ。
〈3946〉
ホトトギスが鳴いて過ぎて行った岡の辺りから、秋風が吹くようになった。妻と共寝するすべもないのに。
〈3947〉
今朝の明け方は秋風の冷たさが身にしみる。雁の渡って来て鳴くときが近いからであろうかな。
〈3948〉
遠い地方でひと月過ぎたけれども、旅立ちに、わが妻が結んでくれた下着の紐を解き開いてはおりません。
| 鑑賞 |
天平18年(746年)8月7日に、国守の大伴家持の館に集まって宴した時に披露された歌で、ここから13首並びます。この宴は、家持が越中国守として着任した後に催した宴で、「館」は、国府庁の近くにあったとされます。この時、大伴一族である大伴池主は、国府の掾(じょう:国司の三等官で従七位上相当官)として、家持が赴任する前からこの職にありました。初めて地方に赴任した家持にとって、先に池主がいたことは何より心強かったことと思われます。二人の深い交遊はここから始まります。
3943は大伴家持の歌。「穂向き」は、稲穂のなびき具合。「見がてり」は、見がてら。国司の職責として、稲の作柄を視察したことを言っているとされます。「我が背子」は、池主を指します。「ふさ手折り来る」の「ふさ」は、いっぱいに、すべて。「女郎花」は、秋の七草の一つで、山野に自生し、晩夏から秋にかけて多数の黄色い花を笠状につけます。「かも」は、詠嘆。池主が、宴に興を添えるためにたくさんの女郎花を折って来たのに対し、感謝の意を込めての挨拶歌です。家持の越中第一作になります。
3944~3946は、大伴池主が答えた歌。3944の「た廻り」は、巡り廻って。家持の感謝が照れくさかったのか、「秋の田の穂向き見がてり」ではなく、女郎花を愛する風流のために歩き回っただけと答えています。また、「た廻り来ぬ」という表現は、恋の歌に人目を避けて訪れるために廻り道をすることを歌う例が少なくないため、あるいはそのように戯れて歌ったのかもしれません。
やがて話題は、家持の、妻の坂上大嬢を京に残しての単身赴任の身の上に及んだらしく、3945で池主はその気分を歌っています。「白栲の」は栲で織った白い布で「衣手」の枕詞。「よしもがも」の「よし」は、手段・方法、「もがも」は、願望。この歌について窪田空穂は、「これは自身の侘びしさをいうのが目的ではく、同じ状態でいる家持の侘びしさを察し、いたわり慰めようとの心からのもの」と言っています。3946の「岡び」は、岡の辺り。「よしもあらなくに」は、ここは妻と共寝するすべもないのに、の意。
3947~3948は家持の歌。3947は、池主の「秋の夜は暁寒し」に答えたもの。「遠つ人」は、遠い人の意で「雁」を擬人化しての枕詞。「朝明(あさけ)」は、アサアケの約。「時近みかも」の「近み」は「近し」のミ語法。3948の「天離る」は、天と遠ざかった意で「鄙」にかかる枕詞。「鄙」は、田舎。都に対する地方の意。「月経ぬ」は、7月に来て8月になったこと。「しかれども」は「しかあれども」の約で、そうではあるが、しかしながら。「解きも開けなくに」の「開けなくに」は「開けぬ」のク語法で名詞形。この歌について窪田空穂は、池主がねんごろに家持の旅情を慰めているのに対し、「家持は素直にその心持を承け入れて、我も妻を思っているといっているのであるが、しかしその言い方は、改まった、むしろ野暮な言い方で、宴歌らしい洒落気なぞの全くないものである。純良ではあるが、我儘な、融通のきかない家持の風貌を思わせる和え歌である」と述べています。一方では、年上の池主の巧みな誘いに乗らない堅物ならではの面白さとも捉えられるところです。

大伴家持の越中赴任
天平17年(745年)正月に、28歳の大伴家持は正六位から従五位下を授けられましたが、新しい官職はなく散位の状態にありました。そして同18年(746年)3月の人事で宮内少輔(宮内省の次官の次席)に任命され、次いで6月21日に越中国守に任命されました。当時の越中国は、射水・礪波・婦負・新川郡のほか、羽咋・鳳至・能登・珠洲郡を含む8郡からなり、国の等級では「大国」に次ぐ「上国」にランク付けされていました。越中は富山県ですが、天平13年(741年)から天平宝字元年(757年)までは能登(石川県の一部)も含んでおり、家持の在任はその期間内にあたります。
平城京から越中国府までの行程は、『延喜式』によれば「上り17日、下り9日」とあり、これは重荷を担って17日、空荷で9日という意味です。また、令には、任命後赴任までの準備期間としての休暇の規定があり、「近国には20日、中国には30日、遠国には40日」と定められていました。越中は中国に相当するので、家持は30日の休暇をもらえました。任命を受けた6月21日から30日の休暇を取れば出発日は7月20日、公の駅馬による赴任の旅は10日かかるとすれば、遅くとも7月30日に越中国府に到着したことになります。家持が目いっぱい休暇を取ったかは定かでなく、初めて地方統治の責任者となるその重責に、一日でも早く任地に着きたいという思いがあったかもしれず、5日くらい早めの7月25日ごろに着任したと見るのが相当のようです。
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