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巻第17(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第17-3952~3956

訓読

3952
妹(いも)が家に伊久里(いくり)の森の藤の花今来(こ)む春も常(つね)かくし見む
3953
雁(かり)がねは使ひに来(こ)むと騒(さわ)くらむ秋風寒みその川の上(へ)に
3954
馬(うま)並(な)めていざ打ち行かな渋谿(しぶたに)の清き礒廻(いそみ)に寄する波(なみ)見に
3955
ぬばたまの夜は更(ふ)けぬらし玉くしげ二上山(ふたがみやま)に月(つき)傾(かたぶ)きぬ
3956
奈呉(なご)の海人(あま)の釣(つり)する舟は今こそば舟棚(ふなだな)打ちてあへて漕(こ)ぎ出(で)め

意味

〈3952〉
 妻の家に行く、というのにちなみのある、伊久里の森の藤の花よ。まためぐり来る春も、いつもこのようにして見よう。
〈3953〉
 雁たちは都へ使いに行こうと鳴き騒いでいるようだ。秋風が寒くなってきたので、あの川べりで。
〈3954〉
 さあ、馬をつらねて行こうではないか、あの渋谿の清らかな磯へ寄せる波を見に。
〈3955〉
 夜はすっかり更けたらしい。二上山に月が傾いてしまった。
〈3956〉
 奈呉の海人の釣りをする舟は、今こそ舟棚を叩いて強いて漕ぎ出すがよい。

鑑賞

 3952~3955は、前の歌(3943~3951)からの続きで、大伴家持が、越中国に国守として赴任して間もない天平18年(746年)8月7日の夜に、国守の館で開かれた宴で詠まれた歌。この年の3月の人事で、29歳の家持は宮内少輔に任命され、次いで6月に越中国守に任命されました。当時の越中国は、射水・礪波・婦負・新川郡のほか、羽咋・鳳至・能登・珠洲郡を含む8郡からなり、国の等級では「大国」に次ぐ「上国」にランク付けされていました。この年齢での出世は早い方で、多くの部下を持つ身になったのです。

 
3952は、僧の玄勝(げんしょう)が伝誦したという古歌1首。題詞の下に大原高安真人(おおはらのたかやすまひと)が作る、年月審らかならずとの注記がある歌です。玄勝は伝未詳ながら、国分寺の僧かと言われます。「妹が家に」は、妻の家に行くの意で、イクと同音の「伊久里」にかかる枕詞。「伊久里」は所在未詳で、新潟県三条市井栗、富山県砺波市井栗谷などとする説があります。「今来む春も」の「今」は、副詞的に用いられており、さらに、やがて、の意。「常かくし見む」の「し」は強意の副助詞で、いつもこのようにして見よう。季節に合わない歌ですが、同地の地名を詠み込んだ歌を新任の国守に歌って聞かせたもののようです。

 3953~3954は
大伴家持の歌。3953の「雁がね」は、雁。「使ひに来むと」は、北方から渡ってくる雁を、中国の蘇武の故事の雁信に関係させて言ったもの。「と」は、とて。「騒くらむ」の「らむ」は、眼前に見えていない現在の事象を推量する助動詞。「寒み」は「寒し」のミ語法で、寒いので。「その川の上に」の「その」は、雁が今いる北方の地のこと。「川の上」は、雁が好んで河辺の蘆萩の中にいるところからの想像。ここで雁の歌を詠んだのは、この前に自身が3947で「遠つ人雁が来鳴かむ時近みかも」と詠んだ歌を展開させたものと見え、窪田空穂は、「雁に雁信を連想し、さらに京に残して来た妻を連想するものがあって、一歩進めたことをいわなくては飽き足りなかったとみえる」と言っています。

 
3954の「馬並めて」は、馬を並べて。「いざ」は、相手への勧誘。「うち行かな」の「うち」は、動作を強調する接頭語、あるいは馬に鞭打つ意。「な」は、願望の助詞。「渋谿」は、富山県高岡市渋谷にある景勝地。二上山の山系が海に張り出したところで、海岸には奇岩が多く点在し、国庁から馬を走らせればすぐにも行き着く景勝の地です。「礒廻」は、磯の入り込んだ所。宴の出席者の中に渋谿の絶景を話して聞かせる者があり、興をそそられて詠んだものと見えます。

 
3955は、史生の土師宿禰道良(はにしのすくねみちよし:伝未詳)の歌。史生は国司の四等官の下にあって、公文書の浄書などに携わる役。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「更けぬらし」の「らし」は、根拠に基づく推量。「玉くしげ」の「玉」は美称。「くしげ」は化粧道具を入れる箱で、箱は蓋があるところから、フタと同音の「二上山」にかかる枕詞。「二上山」は、高岡市市街地の北方にある山で、国庁から西方4kmに位置します。大和の二上山と同様に山頂が2つあります。客として長座をして、夜が更けたと、挨拶の心をもって詠んだものとされ、この歌を契機としてまもなく宴が閉じられたのでしょう。

 
3956は、題詞に「大目(だいさくわん)秦忌寸八千島(はだのいみきやちしま)の館(たち)に宴する歌」とある歌。「大目」は、国司の四等官。秦忌寸八千島は、この歌の前にある国守の大伴家持の館に集まって宴した時にも歌を披露しており(3951)、家持の館から八千島の館に席を移して二次会的な宴を設けたものと見られています。

 「奈呉」は、高岡市伏木から新湊市放生津にかけての海岸。「海人」は、漁師。「今こそば」の「こそば」は「こそ」と「は」が結合した形。「舟棚打ちて」の「舟棚」は、舟の側板で、船の左右に縁側のような形につけた板。踏み渡るための物で、小舟にはなく、やや大きな船には必ずある物。「打ちて」は、船出の際に舟棚を叩いて邪気を払う呪術的な行為ではないかとされます。「あへて」は、強いて。「漕ぎ出め」の「め」は、上の「こそ」の結びで、「こそ~め」は、他に対する勧誘、希望を表します。八千島の館は、奈呉の海を見渡せる眺望のよい場所にあったらしく、早朝漁に出る海人の舟のさまを見せようとして家持を誘ったのでしょう。
窪田空穂は、「挨拶の歌の範囲のものであるが、それとしてはきわどい境を捉え、生動の趣を帯びさせている、上手な歌である」と評しています。
 


越中国

 7世紀末、越国(高志国)が分割され、越前国、越中国、越後国の前身となる行政区分が置かれました。大宝2年(702年)、礪波郡、射水郡、婦負郡、新川郡の4郡で構成される越中国となりました。現在の富山県とほぼ同一の領域です。天平18年(746年)、大伴家持は国司として越中国に赴任し、天平勝宝3年(751年)、5年間の任を終えて、少納言となって帰京しました。この間、約220首の歌を詠んでいます。

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