| 訓読 |
3957
天離(あまざか)る 鄙(ひな)治(をさ)めにと 大君(おほきみ)の 任(ま)けのまにまに 出でて来(こ)し 我(わ)れを送ると あをによし 奈良山(ならやま)過ぎて 泉川(いづみがは) 清き河原(かはら)に 馬 留(とど)め 別れし時に ま幸(さき)くて 我(あ)れ帰り来(こ)む 平らけく 斎(いは)ひて待てと 語らひて 来(こ)し日の極(きは)み 玉桙(たまほこ)の 道をた遠(どほ)み 山川の 隔(へな)りてあれば 恋しけく 日(け)長きものを 見まく欲(ほ)り 思ふ間(あひだ)に 玉梓(たまづさ)の 使ひの来(け)れば 嬉(うれ)しみと 我(あ)が待ち問(と)ふに およづれの たはこととかも はしきよし 汝弟(なおと)の命(みこと) 何しかも 時しはあらむを はだすすき 穂の出(い)づる秋の 萩(はぎ)の花 にほへるやどを〈言ふこころは、この人ひととなり、花草花樹を好愛(め)でて多(さは)に寝院(しんいん)の庭に植ゑたり。故(ゆゑ)に「花にほへる庭(やど)」と謂ふ〉 朝庭(あさには)に 出で立ち平(なら)し 夕庭(ゆふには)に 踏み平(たひら)げず 佐保(さほ)の内の 里を行き過ぎ あしひきの 山の木末(こぬれ)に 白雲に 立ちたなびくと 我(あれ)に告げつる〈佐保山に火葬す。故に「佐保の内の里を行き過ぎ」といふ〉
3958
ま幸(さき)くと言ひてしものを白雲(しらくも)に立ちたなびくと聞けば悲しも
3959
かからむとかねて知りせば越(こし)の海の荒礒(ありそ)の波も見せましものを
| 意味 |
〈3957〉
都から遠く離れた鄙の国を治めるためにと、大君のご命令のままに出かけて来た私を見送るといって、国境の奈良山を過ぎ、泉川の清らかな河原に馬を留めて別れたその時に、何事もなく無事に帰ってくるから、お前も変わりなく、無事を祈って待っていてくれと語ってやってきたその日を最後に、道は遠く、山川が隔たっているものだから、恋しさは日を重ねてつのるばかりで、会いたいものだと思っているところへ、使いがやってきた。嬉しやと、待ちかねて聞けば、でたらめの戯言なのか、何たること、いとしい我が弟よ、いったいどんな気持ちで、時は今でなくともいくらもあろうに、すすきが穂を出す秋の、萩の花が咲くその庭を(こううたったのは、彼は生来、花草や花樹が大好きで、たくさん母屋の庭に植えていたから。それゆえ「花薫へる庭」と言う)、朝の庭に出で立って踏みならすことも、夕べの庭に立って行ったり来たりもせず、佐保の内の里を通り過ぎ、山の梢の先に白雲となってたなびいているなどと、どうして私に知らせてよこしたのだ。(佐保山で火葬した。それゆえ「佐保の内の里を行き過ぎ」と言う)
〈3958〉
無事でいてくれよと、あれほど言い置いたのに、白雲になってたなびいていると聞いて悲しい。
〈3959〉
こんなことになると前々から分かっていたなら、この越の海の荒磯の波を見せておくのだったのに。
| 鑑賞 |
題詞に「長逝せる弟を哀傷しぶる歌」とある大伴家持の歌です。天平18年(746年)9月25日、越中にいた家持のもとに、京から弟・書持(ふみもち)の訃報が届きました。すでに佐保山で火葬されたとの報せも含まれており、家持は奈良に赴くこともかないませんでした。その2か月前、家持が越中に赴任するとき、弟は馬で奈良山を越え、泉川(木津川)まで送ってくれたのでした。互いに別れを惜しみ、「ま幸くて 我れ帰り来む 平らけく」と言い交わして別れたばかりだったのです。それが永遠の別れになるとは夢にも思わなかったのでした。
大伴書持は旅人の子で、家持の異母弟にあたります(生年不明)。若いころから家持と共に和歌の創作に励んだらしく、『万葉集』に12首の歌を残しています。ただし『続日本紀』などに名は見えず、また『万葉集』を見ても官職に就いていた形跡はありません。使いの者から書持の死を知らされた時の家持は29歳でしたから、書持はあまりに若くして亡くなっています。それまでの家持との歌のやり取りからは、大変仲のよい兄弟だったことが窺えます。
3957の「天離る」は「鄙」の枕詞。「鄙」は都から遠く離れた地。「任け」は、地方官として派遣すること。「まにまに」は、ままに。「あをによし」は「奈良」の枕詞。「奈良山」は、平城京の北、山背国との国境にある丘陵。「泉川」は、今の木津川。「ま幸くて」は、無事で。「平らけく」は、無事に、平安に。「斎ひて」は、身を慎んで祈って。「日の極み」は、その日を最後に。「玉桙の」は「道」の枕詞。「道をた遠み」の「た」は接頭語。「遠み」は「遠し」のミ語法で、遠いので。「恋しけく」は「恋し」のク語法で名詞形。「見まく欲り」の「見まく」は「見む」のク語法で名詞形。「玉梓の」は「使ひ」の枕詞。「およづれ」は、人を迷わす言。「たはこと」は、でたらめ。「はしきよし」は、ああいとしい。「汝弟の命」の「汝」は、親愛して添える語。「命」は、故人への敬称。「何しかも」は、どうして、なんだって。「時しはあらむを」の「時」は、死ぬ時。「し」は、強意の副助詞。「はだすすき」は、薄の穂が旗のようになるところからの称。「にほへるやどを」の「にほふ」は、ここは色美しく咲き盛る意。「寝院」は正殿のことで寝殿と同じ。「佐保」は、当時の高官の邸宅のあった地で、大伴氏の邸宅もあった地。「あしひきの」は「山」の枕詞。「木末」は梢、木の枝先。「白雲」は、煙の比喩。「我に告げつる」の「つつ」は、上の「たはこととかも」の「かも」の係り結びで連体形。
3958は、長歌で言ったことの要点を繋ぎ合わせて一首としたもの。3959の「かからむと」は「かくあらむと」の約で、こんなことになると。「知りせば」の「せば」は仮定で、結句の「まし」に呼応しています。「見せましものを」の「まし」は、事実に反する仮の想像・意志などを表す助動詞。窪田空穂は、「先蹤(先例)のある歌ではあるが、愛情の溢れているものである」と述べています。

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大伴家の人々
大伴安麻呂
壬申の乱での功臣で、旅人・田主・宿奈麻呂・坂上郎女らの父。大宝・和銅期を通じて式部卿・兵部卿・大納言・太宰帥(兼)となり、和銅7年(714年)5月に死去した時は、大納言兼大将軍。正三位の地位にあった。佐保地内に邸宅をもち、「佐保大納言卿」と呼ばれた。
巨勢郎女
安麻呂の妻で、田主の母。旅人の母であるとも考えられている。安麻呂が巨勢郎女に求婚し、それに郎女が答えた歌が『 万葉集』巻第2-101~102に残されている。なお、大伴氏と巨勢氏は、壬申の乱においては敵対関係にあった。
石川郎女(石川内命婦)
安麻呂の妻で、坂上郎女・稲公の母。蘇我氏の高貴な血を引き、内命婦として宮廷に仕えた。安麻呂が、すでに巨勢郎女との間に旅人・田主・宿奈麻呂の3人の子供をもうけているにもかかわらず、石川郎女と結婚したのは、蘇我氏を継承する石川氏との姻戚関係を結びたいとの理由からだったとされる。
旅人
安麻呂の長男で、母は巨勢郎女と考えられている。家持・書持の父。征隼人持節使・大宰帥をへて従二位・大納言。太宰帥として筑紫在任中に、山上憶良らとともに筑紫歌壇を形成。安麻呂、旅人と続く「佐保大納言家」は、この時代、大伴氏のなかで最も有力な家柄だった。
稲公(稲君)
安麻呂と石川郎女の子で、旅人の庶弟、家持の叔父、坂上郎女の実弟。天平2年(730年)6月、旅人が大宰府で重病に陥った際に、遺言を伝えたいとして、京から稲公と甥の古麻呂を呼び寄せており、親しい関係が窺える。家持が24歳で内舎人の職にあったとき、天平13年(741年)12月に因幡国守として赴任している。
田主
安麻呂と巨勢郎女の子で、旅人の実弟、家持の叔父にあたる。『万葉集』には「容姿佳艶、風流秀絶、見る人聞く者、嘆せずといふことなし」と記され、その美男子ぶりが強調されている。しかし、兄弟の宿奈麻呂や稲公が五位以上の官職を伴って史書にしばしば登場するのに対し、田主は『続日本紀』にも登場しない。五位以上の官位に就く前に亡くなったか。
古麻呂
父親について複数の説があり確実なことは不明。長徳あるいは御行の子とする系図も存在するが、『 万葉集』には旅人の甥とする記述がある。旅人の弟には田主・宿奈麻呂・稲公がいるので、古麻呂はこのうち誰かの子であったことになる。天平勝宝期に左少弁・遣唐副使・左大弁の職をにない正四位下となる。唐から帰国するとき、鑑真を自らの船に載せて日本に招くことに成功した。のち橘奈良麻呂らによる藤原仲麻呂の排除計画に与し、捕縛されて命を落とした。
坂上郎女
安麻呂と石川郎女の子で、旅人の異母妹、家持の叔母にあたる。若い時に穂積皇子に召され、その没後は藤原不比等の子・麻呂の妻となるが、すぐに麻呂は離れる。後に、前妻の子もある大伴宿奈麻呂(異母兄)に嫁して、坂上大嬢と二嬢を生む。後に、長女は家持の妻となり、次女は大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)の妻となった。家持の少・青年期に大きな影響を与えた。
書持
旅人の子で、家持の弟。史書などには事績は見られず、『万葉集』に収められた歌のみでその生涯を知ることができる。天平18年(746年)に若くして亡くなった。
池主
出自は不明で、池主という名から、田主の子ではないかと見る説がある。家持と長く親交を結んだ役人として知られ、天平年間末期に越中掾を務め、天平18年(746年)6月に家持が越中守に任ぜられて以降、翌年にかけて作歌活動が『万葉集』に見られる。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |