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巻第17(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第17-3993・3994

訓読

3993
藤波(ふぢなみ)は 咲きて散りにき 卯(う)の花は 今そ盛りと あしひきの 山にも野にも ほととぎす 鳴きし響(とよ)めば うちなびく 心もしのに そこをしも うら恋(ごひ)しみと 思ふどち 馬うち群(む)れて 携(たづさ)はり 出で立ち見れば 射水川(いみづかは) 湊(みなと)の洲鳥(すどり) 朝なぎに 潟(かた)にあさりし 潮満てば 妻呼び交(かは)す 羨(とも)しきに 見つつ過ぎ行き 渋谿(しぶたに)の 荒磯(ありそ)の崎に 沖つ波 寄せ来る玉藻(たまも) 片縒(かたよ)りに 縵(かづら)に作り 妹(いも)がため 手に巻き持ちて うらぐはし 布勢(ふせ)の水海(みづうみ)に 海人舟(あまぶね)に ま楫(かぢ)掻(か)い貫(ぬ)き 白たへの 袖(そで)振り返し 率(あども)ひて 我(わ)が漕(こ)ぎ行けば 乎布(をふ)の崎 花散りまがひ 渚(なぎさ)には 葦鴨(あしがも)騒(さわ)き さざれ波 立ちても居(ゐ)ても 漕(こ)ぎ巡(めぐ)り 見れども飽(あ)かず 秋さらば 黄葉(もみち)の時に 春さらば 花の盛りに かもかくも 君がまにまと かくしこそ 見も明(あき)らめめ 絶ゆる日あらめや
3994
白波の寄せ来る玉藻(たまも)世の間(あひだ)も継ぎて見に来(こ)む清き浜(はま)びを

意味

〈3993〉
 藤波は咲いて散ったけれど、卯の花は今が盛りとばかりに、山にも野にもホトトギスの鳴き声が鳴り響いているので、心もしおれるばかりにその声が恋しくなって、親しい仲間同志が馬に鞭打って出かけて眺めると、 射水川の河口の洲鳥たちが、朝なぎに干潟で餌をあさり、潮が満ちてくると、妻を求めて鳴き交わしている。心惹かれながらも横目に見て通り過ぎ、渋谿の荒磯の崎に沖の波が寄せてくる玉藻を採って長々と一筋によじり、縵に仕立て、妻に見せようと手に巻き付けた。 あの心も霊妙になるような布勢の水海で、海人の小舟楫を揃えて貫き出し、袖をひるがえしながら声を掛け合って漕いでいくと、乎布の崎には花が散り乱れ、渚には葦鴨たちが群れ騒いでいた。さざ波が立つように立ったり座ったりして見ても、あちょこち漕ぎ回って見ても、見飽きることがない。秋になって黄葉が映える時に、また春がめぐってきたら花の盛りの時に、どのようにもあなたのお心のままに、このように見物して心を晴らしましょう。この遊覧の絶える日などあるものですか。
〈3994〉
 白波が寄せてくる玉藻を、この世に生きている限り、ずっと続けて見に来よう。この清らかな浜辺を。

鑑賞

 大伴池主の歌。題詞に「敬(つつし)みて布勢の水海に遊覧する賦に和(こた)ふる」歌とあり、その前にある大伴家持の長歌・短歌(3991~3992)に和したものです。池主もこの遊覧に同行していたものと見えます。

 
3993の「藤波」は、藤の花房が風になびくさまを波に見立てた歌語。「あしひきの」は「山」の枕詞。「うちなびく」は、物に感じる心の状態をいい「心」にかかる比喩的枕詞。「心もしのに」は、心もしおれるほどに。「そこをしも」の「し」は強意で、その点を、の意。「うら恋しみと」は、心の中で恋しく思うからと。「思ふどち」は、親しい仲間。「携はり」は、連れだって。「射水川」は、いまの小矢部川。「洲鳥」は、洲にいる鳥。「潟にあさりし」は、干潟で餌を探し求めて。「羨しきに」の「羨し」は、羨ましく心惹かれる意。「渋谿」は、高岡市渋谷。「片縒り」は、糸を縒るには普通2本を縒り合せるところ1本で縒ること。「うらぐはし」は、うるわしい、心も霊妙になるような。「布勢の水海」は、氷見市南方にあった湖。「白たへの」は「袖」の枕詞。「率ひて」は、声をかけ合って。「乎布の崎」は、布勢の水海にあった岬。「さざれ波」は、さざ波で「立つ」の枕詞。「かもかくも」は、とにもかくにも、どのようにも。「君がまにまに」は、あなた(家持)に従って。「かくしこそ」は、このように。「見も明らめめ」は、眺めて心を晴らそう。「め」は、上の「こそ」の係り結び。「絶える日あらめや」の「や」は、反語。

 
窪田空穂は、この歌を評し、「きわめて要領よく和え歌としての心を遂げていて、その頭脳の明敏を思わせるものである。しかしこれを一首の歌として見ると、部分的にはいかにも巧みであるにもかかわらず、全体を貫いている気分は稀薄で、その点では家持の上の歌に遠く及ばないものである。一長一短であるが、歌人としては家持の下位に立つべき人である」と述べています。

 
3994の上2句は、玉藻に「よ(節のこと)」のある意で「世」を導く序詞。「世の間も」は、この世にある間、一生の間。「清き浜びを」の「を」は、感動の助詞。
 


大伴池主

 生没年不詳。天平18年(746年)ころ越中掾(じよう)として大伴家持の配下にあり、『万葉集』に、家持との間に交わした多くの贈答歌をとどめるが、大伴一族とあるのみで系譜は不明。祖父麻呂の庶子とみる説、牛養の子とする説などがある。のち越前掾に転じ、さらに中央官として都にかえった。天平宝字元年(757年)、橘奈良麻呂の変に加わって投獄され、その後の消息は不明となっている。『万葉集』に和歌作品29首が採録されており、勅撰歌人として『新勅撰和歌集』にも1首入集。漢詩もよくし、その才能は家持を上回っていたとされる。

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