| 訓読 |
3995
玉桙(たまほこ)の道に出で立ち別れなば見ぬ日さまねみ恋しけむかも [一云 見ぬ日久しみ恋しけむかも]
3996
我(わ)が背子(せこ)が国へましなば霍公鳥(ほととぎす)鳴かむ五月(さつき)は寂(さぶ)しけむかも
3997
我(あ)れなしとなわび我(わ)が背子(せこ)霍公鳥(ほととぎす)鳴かむ五月は玉を貫(ぬ)かさね
3998
我(わ)が宿(やど)の花橘(はなたちばな)を花ごめに玉にぞ我(あ)が貫(ぬ)く待たば苦しみ
3999
都方(みやこへ)に立つ日近づく飽くまでに相(あひ)見て行かな恋ふる日多けむ
| 意味 |
〈3995〉
都への旅路についてお別れしてしまったら、お逢いできない日がずっと重なるので、恋しくてならないでしょう。(お逢いできない日が長く続くので、恋しくてならないでしょう)
〈3996〉
あなたが大和の国へいらっしゃったなら、ホトトギスが来て鳴く五月は、寂しくてならないでしょう。
〈3997〉
私がいないからといって気落ちしないでください、あなた。ホトトギスが鳴く五月になったら薬玉を作って祝って下さい。
〈3998〉
我が家の庭の橘を、花もろともに糸に通して私は薬玉にします。ただ待つのは苦しいので。
〈3999〉
都の方へ出立する日が近づいた。心ゆくまで会って行こう、恋しく思う日が多いだろうから。
| 鑑賞 |
3995~3998は、国守である大伴家持が、正税帳(しょうぜいちょう)を太政官に提出するため入京することとなったため、4月26日に掾(じょう)大伴宿祢池主(おおとものすくねいけぬし)の邸宅で送別の宴を開いたときの歌。「正税帳」は、租税の出納を記した収支決算報告書。毎年、前年分を記した帳簿を太政官に提出することになっていました。
3995は家持の歌。「玉桙の」は「道」の枕詞。神事などで使う美しい鉾を道に立てたことから、あるいは「旅路の安全」を祈る意味から、道や旅、里などに掛かります。「道に出で立ち」は、(旅の)道へと出発し。「別れなば」は、(本当に)別れてしまったならば。「さまねみ」の「さ」は、接頭語、「まねみ」は、数が多いので。「恋しけむかも」の「恋しけむ」は、形容詞の古い未然形「恋しけ」に未来の助動詞「む」のついたもの。「かも」は、詠嘆の終助詞。
3996は、介(すけ)内蔵忌寸縄麻呂(くらのいみきつなまろ)の歌。「介」は、次官で、「掾」である池主の上。「我が背子」は、家持を親しんで呼んだ語。「国へましなば」の「国」は、故郷の奈良のこと。「まし」は「行く」の敬語。「さぶしけむかも」の「さぶし」は、寂しい、楽しまない意。「む」「かも」は、3995と同じ。3997は家持の歌。「なわび」の「な」は、禁止の副詞。「わぶ」は、がっかりして気落ちする意。「玉を貫かさね」は、薬玉をお作りなさい、の意。
3998は、石川朝臣水通(いしかわのあそみみみち:伝未詳)の橘の歌。たたし、この歌を伝えて誦詠したのは、主人の大伴池主。「宿」は、家の敷地、庭先。「花ごめに」は、花もろともに、の意か。「待たば苦しみ」は、実になるのを待っていたら、待ち遠しく苦しいので。玉には、本来は実を貫くべきだからです。池主がこの歌を思い出して伝誦したのは、橘の実になるのを待ち遠しく思う苦しさと家持が都から帰って来るのを待つ苦しさの共通するところと、家持の「玉を貫かさね」に応じるように「玉にぞ我が貫く」の句があるところから、この餞宴の場にふさわしいとして誦泳したようです。
3999は、家持の歌。「守大伴宿禰家持の館に飲宴する歌」とあり、3995~3998までの池主の館での餞宴と同日であるため、池主の館での宴の後、家持の館に座を移し、お礼の宴(二次会)を催したものと見られます。「都方に」は、都の方角へ、都に向かって、の意。「飽くまでに」は、存分に、満足するまで。「相見て行かな」の「な」は、希望・意志を表す終助詞。「恋ふる日多けむ」の「多けむ」は、形容詞「多し」の連用形語幹「多」+推量の助動詞「けむ」(~だろう)。

四度使と書類作成
諸国から帳簿を中央に提出する機会は大きく4つに分けられ、それぞれ、国司のメンバーのなかから使者を選んで都に派遣した。毎年の財務収支報告書である正税帳(しょうぜいちょう)を送る「正税帳使」、人々への賦課の基準となる計帳を送る「大帳使(だいちょうし)」、地方で徴収した調の物品と関係書類を送る「貢調使(こうちょうし)」、そして毎年の官人の勤務評価に関する書類を提出する「朝集使(ちょうしゅうし)」である。これらの使者をまとめて四度使(よどのつかい)と呼んでいる。
四度使のそれぞれの使者が主目的として提出する書類のほかに、関連する統計資料の付属書類もたくさんあり、それらは枝文(えだぶみ)と呼ばれた。四度枝文(よどのえだぶみ)を含めて考えると、諸国では一年中ほとんど書類づくりに追われていなければならない。これに加えて、戸籍や、田籍(でんせき)・田図(でんず)といった田地の登録関係帳簿が6年に1回作成される。
全国の官司には、長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)という四等級の官職が置かれるのが原則で、四等官(しとうかん)と呼ばれる。しかし、書類の作成にあたる実務労働は、四等官だけではとても足りない。四等官の下には史生(ししょう)という書記官がいるが、これでも実際には足りないだろう。諸国での人員は、もっとも多い国でも長官1名、次官1名、判官2名、主典2名、史生3名、合計9名である。これでは、種々の帳簿の責任者を分担する程度のことしかできない。しかも、年間に数名は四度使として上京中である。
そこで、実際の書類作成労働の主力となる者が、かき集められることになる。こうして諸国の行政においては、書生(しょしょう)と呼ばれる者たちが実務に参加するようになっていった。書生は律令にはまったく規定されていない。必要に迫られて、諸国で設置されるようになった肩書きの者たちである。7世紀段階ではこうした存在は確認できていないので、大宝律令施行による書類扱い業務の膨大化に伴って生まれた存在ということができる。
各地の書生たちは、地元出身の者であった。書生は文筆能力をもっていなければ役に立たないため、地方豪族などの有力者の家柄から採用されていたようである。地方行政の末端にいた彼らの活躍がなければ、書類もまとめられないし、それを使って人々に賦課をかけることもできなかった。彼らは、官僚機構を末端で支え、国家運営になくてはならない存在となっていったのである。
~『律令国家と万葉びと』から引用
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