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巻第17(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第17-4006・4007

訓読

4006
かき数(かぞ)ふ 二上山(ふたがみやま)に 神(かむ)さびて 立てる栂(つが)の木 本(もと)も枝(え)も 同じ常磐(ときは)に はしきよし 我が背の君を 朝去らず 逢ひて言問(ことど)ひ 夕されば 手(て)携(たづさ)はりて 射水川(いみづがは) 清き河内(かふち)に 出で立ちて 我(わ)が立ち見れば あゆの風 いたくし吹けば 港には 白波高み 妻呼ぶと 渚鳥(すどり)は騒く 葦(あし)刈ると 海人(あま)の小舟(をぶね)は 入江(いりえ)漕(こ)ぐ 楫(かぢ)の音(おと)高し そこをしも あやに羨(とも)しみ 偲(しの)ひつつ 遊ぶ盛りを 天皇(すめろき)の 食(を)す国なれば 御言(みこと)持ち 立ち別れなば 後(おく)れたる 君はあれども 玉桙(たまほこ)の 道行く我(わ)れは 白雲の たなびく山を 岩根(いはね)踏み 越え隔(へな)りなば 恋しけく 日(け)の長けむぞ そこ思へば 心し痛し 霍公鳥(ほととぎす) 声にあへ貫(ぬ)く 玉にもが 手に巻き持ちて 朝夕(あさよひ)に 見つつ行かむを 置きて行かば惜(を)し
4007
我が背子は玉にもがもな霍公鳥声にあへ貫(ぬ)き手に巻きて行かむ

意味

〈4006〉
 二上山に神々しく立っている栂の木の、幹も枝も常に青々と繁り栄えているように、慕わしいわが友のあなたを、毎朝会っては言葉を交わし、夕方になると手を取り合って射水川に出かけたね。清らかな川のほとりに出て行って立ち眺めれば、あゆの風が強く吹き、河口には白波が高く立って、相手を呼ぶ洲の鳥たちが鳴き騒ぐ。葦を刈るとて海人の小舟が入江を漕ぐ櫓の音が高い。そんな光景に無性に心惹かれて、愛でて楽しむ絶好の季節であるのに、天皇の治められる国なので、ご命令のままに都へ旅立たねばならない。後に残ったあなたはともかく、道を遠く行く私は、白雲のたなびく山を岩を踏んで越え隔たってしまったならば、恋しく思う日数も長く続くことだろう。それを思うと心が痛い。あなたがホトトギスの声に交えて貫く玉であったなら、手に巻いて朝夕眺めながら旅行くことができるのに、あとに残して旅立たねばならないのが残念でたまらない。
〈4007〉
 親愛なあなたが玉であってほしいものだ。ホトトギスの声に交えて緒に貫き、手に巻いて行くものを。

鑑賞

 題詞に「京に入らむこと漸(やや)に近づきて、悲みの情 撥(はら)ひ難くして、懐を(おもひ)述ぶる」とある歌で、正税帳使となって上京する日が近くなった家持が、池主とのしばらくの別れを惜しんで寄せたものです。

 
4006の「かき数ふ」の「かき」は接頭語、一つ二つと数える意でフタと続き、同音を持つ「二上山」にかかる枕詞。他に用例はなく、家持の考案によるもののようです。「栂の木」は、マツ科の常緑高木。「本も枝も同じ常磐に」は、幹も枝も同じ常緑に茂り栄えて。「はしきよし」は、慕わしい。「我が背の君」は、池主を指します。「朝去らず」は、朝ごとに。「言問ひ」は、物を言い。「あゆの風」は、東風の越中での方言。「港」は、河口。「渚鳥」は、洲にいる鳥。「楫」は、櫓や櫂の総称。「そこをしもあやに羨しみ」の「しも」は強意、「あやに」は何とも言いようがないほどに、無性に。「遊ぶ盛りを」の「を」は、逆接。「天皇の食す国なれば」は、天皇の統治なさる国なので。「御言持ち」は、ご命令を持って。「後れたる君はあれども」の「あれども」は、ともかくとして。「玉桙の」は「道」の枕詞。「恋しけく」は「恋し」のク語法で名詞形。「長けむ」は、長くあろう。「霍公鳥声にあへ貫く玉にもが」は、ホトトギスの声に交じえて緒に貫くところの玉であってほしい。「緒に貫く玉」は、5月5日の節日に用いる薬玉で、玉は実物の玉を主とし、橘の幼い実をも、玉に擬して用いたもの。「もが」は、願望の助詞。

 
4007の「玉にもがもな」は、長歌の「玉にもが」に感動を表す助詞「も」と「な」がついた形で、同じ意味。長歌の主題を反復した、古風な反歌の型です。
 


家持の作歌活動の年代区分

 大伴家持の作歌活動は、生涯の境遇や官職の推移と密接に連動しており、大きく初期(少年期〜青年期)、越中守期(代表作・歌日記の形成期)、中堅・都職期(成熟期)、辺境期の4つの年代に大別されます。なお、『万葉集』の最後(巻第17~巻第20)は家持のプライベートな「歌日記」としての性格が強く、制作年代が極めて明確に記録されているのが特徴です。

  1. 初期・青春期(〜746年:29歳まで)
    父親の大伴旅人と死別し、若くして大伴一族の家長となった時期にあたります。この時期の歌は、叔母の坂上郎女やのちに正妻となる坂上大嬢ほか数々の女性たちとの贈答歌が中心で、繊細で抒情的な恋歌が多く、六朝漢詩の影響を受けた耽美的な表現も見られます。
  2. 越中守期(746年〜751年:29歳〜34歳)
    地方官(越中守)として現在の富山県に赴任した5年間にあたります。家持の文学的頂点とされる時期であり、北陸の豊かな自然や四季の移ろいを深く観察し、極めて美的で象徴的な景物歌を多く詠みました。自然と内面の孤独感を融合させた「美文的・客観的」な傑作が集中しています。
  3. 都職・中堅官吏期(751年〜757年:34歳~42歳)
    越中から都に戻り、兵部少輔などを歴任。藤原仲麻呂(恵美押勝)の台頭により大伴氏の政治的立場が困窮する政治的苦難の時代にあたります。静観を余儀なくされ、詩風はより深く、内省的・思索的な深みを増します。また、兵部省の役人として防人の歌を収集・選定し、万葉集の編纂に深く関わった時期でもあります。
  4. 辺境期(758年:42歳)
    因幡守に左遷され、758年正月に因幡国庁で詠んだ「新しき年の始めの初春の今日降る雪のいや重け吉事(巻20-4516)」の歌で、『万葉集』は閉じられます。家持はこの時まだ42歳で、亡くなったのは68歳ですが、この歌を最後に彼の歌は『万葉集』に残っていません。その後の26年間の家持は、よく「歌わぬ人」になったとも言われますが、ふつうに歌を作ったものの、自分が後世に残したいような歌はできなかったのかもしれません。

 家持の作歌活動は、若年期の個人的な感情表現(恋歌)から、越中守期の洗練された自然美観賞、その後の国家・一族の安寧を願う儀礼的・思索的歌風へと、自身の置かれた立場に応じて多様に深化していった点が最大の特徴です。

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木と紙の使用

 8世紀には、たとえば四度使(よどのつかい)が持参して中央に提出する書類は、紙に書かれた。官僚機構でやりとりされる文書のもっとも正式な姿は、紙の書類であったといってよいだろう。このため、紙は各地で生産されていた。しかし、すべての文書に紙を使うほどの生産量は確保されていなかったのだろう。文書の下書きや統計の整理作業などには木も使われていた。

 木の札は、紙のない時代から使われていたが、日本列島では紙が使われるようになってもその使用がなくなったわけではなかった。紙がないから木を使ったのではない。紙があっても木を使ったのである。木には紙では代替できない特徴があり、その利点を活かして利用していた。たとえば屋外での記録作業や、長期間にわたる掲示などの場合には、紙ではすぐぼろぼろになってしまうが、木に書いておけば多少の風雨であっても耐えられる。また、物品に荷札をつけて長距離を運んでいくような場合、紙の荷札では傷んでしまう可能性があるが、木の荷札であれば、運搬作業で荷物を取り扱う際にも、ぼろぼろになってしまうことはない。

 このように、7世紀から8世紀にかけて、紙と木は併用されていた。書類をよく使う職場では、紙を漉(す)いたり、木の札をつくる担当者がいた。諸国の作業場では、付近に住む人々のなかから徴発された者が、雑徭の名目で賦課された労働として、紙漉きや札作りに従事していたようである。

~『律令国家と万葉びと』から引用

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