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巻第17(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第17-4016~4020

訓読

4016
婦負(めひ)の野のすすき押しなべ降る雪に宿(やど)借る今日(けふ)し悲しく思ほゆ
4017
あゆの風 いたく吹くらし奈呉(なご)の海人(あま)の釣(つり)する小船(をぶね)漕(こ)ぎ隠(かく)る見ゆ
4018
港風(みなとかぜ)寒く吹くらし奈呉(なご)の江に妻呼び交(かは)し鶴(たづ)多(さは)に鳴く [一云 鶴騒くなり]
4019
天離(あまざか)る鄙(ひな)ともしるくここだくも繁(しげ)き恋かも和(な)ぐる日もなく
4020
越(こし)の海の信濃(しなの)の浜を行き暮らし長き春日(はるひ)も忘れて思へや

意味

〈4016〉
 婦負の野のススキを一面に倒しながら雪が降っている。ここで宿を取らねばならないのかと思うと、今日はことに悲しく思われる。
〈4017〉
 東風が激しく吹いているようだ。奈呉で海人たちが釣りする小舟が、浦陰に漕ぎ隠れて行くのが見える。
〈4018〉
 河口に寒々と風が吹いているようだ。奈呉の入り江では、連れ合いを呼び合って、鶴がたくさん鳴いている(鶴の鳴き立てる声がする)。
〈4019〉
 遠く遠く離れた鄙の地というのは、なるほどもっともだ。こんなにも故郷が恋しくて、心の静まる日とてない。
〈4020〉
 越の海の、信濃の浜を歩いて日を過ごし、こんなに長い春の一日でさえ、京恋しさを思い忘れることがあろうか。

鑑賞

 4016は、高市黒人の歌。「婦負の野」は、富山県射水市あたりの野。「押しなべ」は、押し靡かせて。「宿」は、家の敷地、庭先。黒人は、越中にも旅したことがあるのか、左注には、この歌を伝誦したのは三国真人五百国(みくにのまひといおくに)である、とあります。三国真人五百国の伝は不明ですが、越中国庁に仕えていた人とみられ、天平19年に、国守の大伴家持が記録にとどめていたものです。古歌ですが、この時代まで人々の共感を呼び、伝誦されて生き続けた歌だったことが分かります。

 ただし、これは黒人の歌であることを否定する見方もあります。巻第17は家持の歌日記的な巻であり、この歌のあたりは天平20年(748年)正月頃の歌が並んでいます。その中にぽつんと約50年前の黒人の歌があるのであり、黒人らしい作風の旅愁の歌であることから、伝誦者の三国真人五百国を信じてそのまま「高市黒人の歌」という題詞をつけたのではないかとも言われます。黒人が都から北方へ旅したのは、巻第3-274・275などから琵琶湖西岸の比良、高島あたりが北限でしたが、これは越中で、はるか遠方です。この時に湖北を越え、越中にまで足を延ばしたのでしょうか。また、黒人は持統・文武天皇に供奉して行動した人ですが、持統も文武も北陸に行ったという記録はありません。

 4017~4020は、天平20年(748年)正月29日の
大伴家持の作。4017の「あゆの風」は、越の俗語に、東の風を「あゆのかぜ」といへり、との注記があります。現在でも富山県の人々が用いている言葉だといいます。「奈呉」は、高岡市から射水市にかけての海岸。「漕ぎ隠る見ゆ」は、これと同一の句が人麻呂歌集の歌(巻第7-1068)にあり、歌集歌は家持が若いころからよく学んでいるので、これもその一つの現れだろうとされます。

 ここの歌について、文学者の
橋本達雄は次のように述べています。―― この景は次の4018の「妻呼びかは」す鳥の光景とともに、都では見られぬ、家持が愛したもっとも越中らしい景であった。それは4006の長歌で、「あゆの風いたくし吹けば 湊には白波高み、妻呼ぶと渚鳥は騒く 葦刈ると海人の小舟は 入江漕ぐ楫の音高し そこをしもあやにともしみ しのひつつ遊ぶ盛りを」と歌い、その心ひかれる好景をあとにして上京する悲しみを述べていたことからわかる。「あゆの風」と方言で歌っているのも、この地方性を強調したかったからである。――

 
4018の「港風」は、河口を吹く風。ここは射水川の河口。「妻呼び交し」は、雌雄が互いに呼び合って。4019の「天離る」は「鄙」の枕詞。「鄙ともしるく」は、田舎というその通りに。「ここだくも」は、これほど甚だしく。「和ぐる日もなく」は、心が静まる日もなく。4020の「信濃の浜」は、所在未詳。「行き暮らし」は、歩いて一日を暮らし。「忘れて思へや」の「や」は反語で、思い忘れることがあろうか。4018で妻を呼んで鳴く鶴を詠み、そこから奈良にいる妻の大嬢を思って4019、4020の歌を詠んだものとみえます。


教養としての『万葉集』

 『万葉集』が日本人の一般的教養書目に加わったのは、そんなに古いことではない。千年以上にわたって、三十一文字の和歌は詠みつづけられて来たが、手本とされたのは『古今集』(まれに『新古今集』)であって、『万葉集』ではなかった。歌人や連歌師たちの必読書としては、一口に万葉・古今・伊勢・源氏と教えられたが、そのうち万葉だけは、彼らの精読書ではなかったし、また彼らにとって『万葉集』の世界は一種エキゾチックな感じの伴う遠い異郷であった。

 契沖が『万葉集代匠記』の注釈作業を思い立ったとき、それは人々から忘れ去られていたものを再発見することであった。国学の勃興は『万葉集』の再発見に始まったが、それは人々が『万葉集』の歌を通して、日本の古代生活にもう一度めぐり合い、その豊かな言葉の世界によって生き生きとそのイメージを蘇らせ、記紀その他の古典のリヴァイヴァルを果しえたということなのである。

 だがそれがあまねく日本人の教養となったのは、正岡子規の万葉調短歌の唱導以来、アララギ派の歌人たち、すなわち伊藤佐千夫、島木赤彦、斎藤茂吉らの精力的な啓蒙運動によるところが大きいのである。もちろん彼らは学者ではないし、作歌上の動機にうながされて、繰り返し『万葉集』を精読し、その声調を讃嘆し、作者の心の集中をそこに見出し、「歌を作(な)すほどの人は、誰でも万葉集の心に始終すればいい」(赤彦)とさえ言ったのである。だがそれは、歌を作る者の座右の書となったばかりではなかった。歌も作らないし、歌というものにさして興味を抱いていない人たちにも、『万葉集』は拒みがたい魅力を発揮し、あたかもそこに魂の故郷があるかのようななつかしさを、人々に感じさせたのだ。

~山本憲吉著『万葉秀歌鑑賞』から引用

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