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巻第17(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第17-4021~4024

訓読

4021
雄神川(をかみがは)紅(くれなゐ)にほふ娘子(をとめ)らし葦付(あしつき)取ると瀬(せ)に立たすらし
4022
鵜坂川(うさかがは)渡る瀬(せ)多みこの我(あ)が馬(ま)の足掻(あが)きの水に衣(きぬ)濡(ぬ)れにけり
4023
婦負川(めひがは)の早き瀬(せ)ごとに篝(かがり)さし八十伴(やそとも)の男(を)は鵜川(うかは)立ちけり
4024
立山(たちやま)の雪し消(く)らしも延槻(はひつき)の川の渡り瀬(せ)鐙(あぶみ)漬(つ)かすも

意味

〈4021〉
 雄神川は、一面、紅色に照り映えている。娘子たちが葦付を取ろうと、瀬に立っているらしい。
〈4022〉
 鵜坂川は、渡る瀬が幾筋も流れているので、馬が歩く水しぶきで、私の着物はすっかり濡れてしまった。
〈4023〉
 婦負川の早い流れの瀬ごとに篝火を焚き、たくさんの官人たちが、鵜飼を楽しんでいる。
〈4024〉
 立山の雪が解け出してきたらしい。この延槻川の渡り瀬でも、鐙が浸かってしまった。

鑑賞

 天平20年(748年)、大伴家持が越中国守として「春の出挙」の務めのため諸郡を視察した折に、その時その所に応じて目についたものを歌った歌群9首のうちの4首です。「春の出挙」とは、春に公の稲を貸し出し、秋冬に収穫の中から5割の利息をつけて返済させる制度のことです。農業推進と貧農救済のためであるとともに、諸国府の有力な財源でもありました。もっとも、家持の時代には、租税の一部として強制的に割り当てられるようになっており、農民の負担は大きかったようです。

 実際の公の稲の貸し付けは郡司が行うので、国守である家持の任務は、各郡(群家)を巡回して貸し付け状況を点検するものでした。一つの郡内での政務には2~3日を要しており、越中国8郡のうち、国府のある射水(射水)郡を除く7郡を巡回しましたから、14~21日程度の日数を要した、あるいはもっと多くの日数を費やしたかもしれません。射水郡の点検は別の機会に行われたものとみられています。

 管内の巡行は、国府から礪波郡(となみのこおり)→婦負郡(めひのこおり)→新川郡(にいかわのこおり)→能登郡(のとのこおり)→鳳至郡(ふげしのこおり)→珠洲郡(すずのこおり)の順路で行われ、その間に、各地の風物や情景を詠んだ歌を作っています。帰りは、能登半島先端の珠洲から海路で国府近くの津へ戻るというもので、巡行の時期は、2月から3月にかけての両月に及んだとみられています。気分は高揚しつつも、同時に楽しい旅であったらしく、行く先々での歌に、その気分が反映しています。

 
4021は、礪波郡(となみのこおり)の雄神川(おかみがわ)のほとりで作った歌。「礪波郡」は、国府のある射水郡の南にあたり、富山県西南部の越前との境の地。「雄神川」は、岐阜県に発し、砺波平野を流れ富山湾にそそぐ庄川。「紅にほふ」は、紅に照り映えている。「娘子らし」の「ら」は複数、「し」は強意の副助詞。「葦付」は、淡水産の藻で、川もくずとする説があります。「立たす」は、敬語で、女性に対しての慣用。

 
4022は、婦負郡(めひのこおり)の鸕坂川(うさかがわ)のほとりで作った歌。「婦負郡」は、越中中央部の郡で、礪波郡の東隣。「鸕坂川」は、鸕坂付近を流れる神通川中流の古名か。「渡る瀬多み」の「多み」は「多し」のミ語法で、多いので。川幅が広くなっていくつもの流れが生じている状態。「足掻きの水」は、馬の足の運びによって跳ね上がる水しぶき。この歌について窪田空穂は、「上代は川に橋が少なく、ほとんど徒渉であったために、衣が濡れる場合が多く、それが旅の侘びしさの一つとなっていた。・・・しかしこの歌は、侘びしいながらに明るさを持ったものである。そこに家持の風格がある」と評しています。

 
4023は、鵜(う)を潜らせて魚をとる人を見て作った歌。「婦負川」は、神通川の下流域での名かといわれます。「篝さし」は、篝火を点して。「八十伴の男」は、朝廷に仕える多くの役人を指しますが、ここでは鵜飼部のことで、管内の郡司などか。鵜飼は、本来は夏に行われ、『隋書倭国伝』にも鵜飼についての記載があるほどに、古代から行われていました。その様子は『万葉集』に10首近く詠まれています。この時の鵜飼は、国守の歓迎のために特別に催したものかもしれません。

 
4024は、新川郡(にいかわのこおり)で延槻川(はいつきがわ)を渡ったときに作った歌。「新川郡」は、富山県の東部、神通川より東の地。「延槻川」は、立山の剣岳から発する今の早月川(はやつきがわ)。魚津市外の西南方で富山湾に出る川で、全長約40km、県下第一の急流です。「雪し」の「し」は、強意の副助詞。「消(く)」は「消(き)ゆ」と同じ。「らし」は、確かな根拠に基づく推定。2句目を「来らしも」と訓む説もあります。「鐙」は、鞍の両側に垂れ下げ、乗る人の両足を踏みかける馬具。「漬く」は、水にぬれる、浸かる。

 この歌について、言語学者の
犬養孝は次のように評しています。「雪国の春のよみがえりと、清冽な早瀬を渡る緊張感とがとけあって、力感にみちた律動を見せている。遠景に雪の立山連峯をおき、目前に水量を増して澎湃(ほうはい)とおどりくる力感が、上二句にあらわされ、『延槻の川の渡り瀬』の律動に乗って、うねりくる奔流は、馬のあぶみにぶち返し散る。『消らしも』『漬かすも』のひびきあいは、そのまま雪国の春の清冽新鮮な鼓動でもある。越中の風土にあってはじめて見出すことのできた新境地というべきである」。


北陸について

 北陸にはいまの福井・石川・富山・新潟の四県をふくめる。むかしの国名でいえば若狭・越前(福井県)、加賀・能登(石川県)、越中(富山県)、越後・佐渡(新潟県」の諸地で、北陸道、越(こし)の国である。天武朝のころには越前・越中・越後の三国にわかれ、越後のごときは遠く出羽方面にもおよんでいた。その後、国制にはたびたびの変化があって、大伴家持が越中国守として在任のころ(746~751年)には、平安時代の弘仁14年(823年)にできた加賀国はまだ越前に属し、もと越前の一部でのち独立していた能登国は越中に入り、佐渡も越後に属し、信濃川以西の四郡ははやく越中から越後にうつされていた。その後も国制の変遷は多い。

 越路は大和の都からは近江湖北の愛発(あらち)山を越え、さらに南条山系の山また山のかなたにつづくところだし、冬は雪深く一年の半分は曇り日の、風土をまったく異にするところだから、大和からは天(あま)ざかる鄙(ひな)の遠い重い距離感において感ぜられ、「しなざかる越」「み雪降る越」とうたわれている。歌・題詞・左註をこめてこの地方だけで所出の地名(総名を含む)延て約215を数えるのは、その大半は歌人国守家持の越中在任によるといっても過言ではない。

 福井県は延べて約20、石川県は延べて約30、両県とも越中方面への交通路に当り、福井県では敦賀湾周辺や当時国府のあった武生(たけふ)付近に多く、石川県の能登半島には越中在任中の家持の公務による巡行のときの歌や、おそらくは家持による採集と見られる七尾湾熊木地方の地方民謡があって、ことに熊木の民謡は北陸のみならず『万葉集』中の異色となっている。

~『万葉の旅・下』犬養孝著/平凡社から引用

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