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巻第18(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第18-4032~4037

訓読

4032
奈呉(なご)の海に舟しまし貸せ沖に出(い)でて波立ち来(く)やと見て帰り来(こ)む
4033
波立てば奈呉の浦廻(うらみ)に寄る貝の間(ま)なき恋にぞ年は経(へ)にける
4034
奈呉の海に潮(しほ)の早(はや)干(ひ)ばあさりしに出(い)でむと鶴(たづ)は今ぞ鳴くなる
4035
霍公鳥(ほととぎす)いとふ時なしあやめぐさかづらにせむ日こゆ鳴き渡れ
4036
如何(いか)にある布勢(ふせ)の浦(うら)そもここだくに君が見せむと我(わ)れを留(とど)むる
4037
乎布(をふ)の崎(さき)漕(こ)ぎた廻(もとほ)りひねもすに見とも飽くべき浦にあらなくに

意味

〈4032〉
 あの奈呉の海の沖に出て行くのに、ほんのしばし舟を貸してください。波が立ち寄せて来るかどうか見て来たいものです。
〈4033〉
 波が立つと、奈呉の浦辺に絶え間なく寄ってくる貝。そのように絶え間もない恋のせいで、いつのまにか年が過ぎてしまいました。
〈4034〉
 奈呉の海で、潮が引いたらすぐに餌を取りに出ようと、鶴たちは今しきりに鳴き立てています。
〈4035〉
 ホトトギスの声はいつも聞いていたいが、菖蒲草で髪を飾る日には、必ずここを鳴き渡ってくれ。
〈4036〉
 どんなようすなのですか、布勢の浦とは。こんなにも強くあなたが見せようとして私をお引き留めになる。
〈4037〉
 乎布の崎を漕ぎ回ると、一日中見ていても飽きるような浦ではありません。

鑑賞

 4032~4036は、田辺福麻呂(たなべのさきまろ)の歌。詞書に「天平20年(748年)春の3月23日、左大臣橘の家(橘諸兄)の使者、造酒司令史(さけのつかさのさかん)の田辺福麻呂が、国守の大伴宿祢家持(おおとものすくねやかもち)の館でもてなしを受けた。そこで新しく歌を作り、併せて古歌を歌うなどして互いに思いを述べた」とあります。「造酒司」は、宮内省に属し、酒の醸造を司る役所。「令史」はその三等官。何の用件でやって来た使者であるかは不明でが、越中にある橘家の墾田の状況を視察するために遣わされたものかといわれます。

 
田辺福麻呂は『万葉集』末期の官吏で、ここの、橘諸兄の使いとして越中国におもむき、国守の大伴家持らと遊宴した時の作歌のほか、恭仁京、難波京を往来しての作歌や、東国での作もあります。柿本人麻呂や山部赤人の流れを継承するいわゆる「宮廷歌人」的な立場にあったかとされますが、橘諸兄の勢力退潮と呼応するかのように福麻呂の宮廷歌は見られなくなっています。『万葉集』に44首の歌を残しており、そのうち「田辺福麻呂の歌集に出づ」とある歌も、用字や作風などから福麻呂の作と見られています。

 
4032の「奈呉の海」は、国司の館から見える富山湾。「しまし」は、しばらく、少しの間。「波立ち来やと」の「や」は疑問の助詞で、波が立って(こちらへ)やって来るだろうか、どうだろうか、の意。「見て帰り来む」は、見て戻ってこよう。4033の「浦廻」は、湾曲した海岸、入り江の周辺のこと。「寄る貝」は、海岸に打ち寄せられる貝。上3句は「間なき」を導く譬喩式序詞。「恋にぞ」の「恋」は、家持に対する思慕。「ぞ」は強調の係助詞で、「年は経にける」の「ける」が結びの連体形。「ああ、本当に(そんな甲斐のない恋のままで)何年も経ってしまったのだなあ」という、我に返ったような深い自嘲と詠嘆のニュアンスを強く押し出す効果を持っています。

 
4034の「潮の早干ば」は、潮が早く干いたなら。「あさり」は、餌を取ること。「今ぞ鳴くなる」は、ここにも「ぞ〜る」の係り結びが使われており、「今まさに鳴いているのが聞こえてくるよ」という臨場感を強める表現になっています。4035の「いとふ時なし」は、嫌に思う(聞き飽きる)時など決してない。「あやめぐさ」は、菖蒲(しょうぶ)。「かづらにせむ日」は、5月5日の節句にあやめぐさを縵にする習俗のことを言っています。「こゆ」は、ここを通って、ここから。この歌は巻第10-1955にあり、詞書で言っている古歌にあたります。

 
4036は、主人の家持が明日に布勢の水海を見せようとするのに答えた歌。「ここだくに」は、これほどに甚だしく。「君」は、家持のこと。この歌について、窪田空穂は次のように言っています。「対話の語で足りることを、歌の形にしていうのは伝統で、必ずしも歌に溺れてのことではなく、むしろ礼だともいえることである。事実この歌は、一方には、さしたる風景ではなかろうという心を持ちつつ、同時に他方には、あまりにもいわれるので、好奇心を起こし、遊意を催しているという、微妙な味わいを持った歌である。この心は歌でなくては現わせないものである。きわめて平凡のように見えながら、じつは福麿の作歌手腕の凡ならざることを示している」。

 
4037は、家持の歌。「乎布の崎」は、布施の水海の東南にあった岬。「た廻り」の「た」は接頭語で、同じ所を行ったり来たりする意。「ひねもすに」は、朝から晩まで、一日中。「見とも飽くべき」は、見ても飽きるような。「浦にあらなくに」の「あらなく」は「あらぬ」のク語法で名詞形。〜という浦ではないのだから(=いくら見ても飽きない浦なのだから)。窪田空穂は、「福麻呂は余裕をもって、自在な詠み方をしているのに対し、家持はいちずに、融通のきかない詠み方をしている。年をした苦労人と若い貴族とを対させたような趣がある」と述べています。
 


巻第18について

窪田空穂の評論から――

 本巻は、『国歌大観』の番号の4032より4138の107首を収めたもので、長歌10首、短歌97首より成っている。年代は、天平20年3月より天平勝宝2年2月までで、2年間のものである。作者は家持が中心で、それに彼の直接交際した人、及びそれらの人を介して、その作を伝聞した作者だけに限られており、その点、前巻と全く同一である。この消息は、長歌の10首はすべて家持で、また短歌97首のうち58首は家持の作であるのでもうかがえる。
 
 この二年間の家持の作歌生活の上で注意されることは、第一には宴歌の少なくなっていることである。京から来る官人を迎えるための宴、国庁の儀式としての宴は別とすると、親睦のための宴はきわめて稀れで、したがって宴歌も少ない。第二は、遊覧の歌の少ないことである。京から来た田辺福麿をもてなすために布勢の水落に遊んだのを除くと、遊覧と称すべきほどのものはなく、したがってその歌もない。第三に、それらとは反対に多くなっているのは、周囲の者とは離れて、ひとり心やりに詠んでいる歌である。これは家持の、国守生活に馴れ、景勝に対する好奇心が衰え、安定した気分になって来たがためで、ひとり心やりに詠む歌の多くなったのは、彼の本来の性分が、ようやく現われきたったためと思われる。

 この安定を持って来たということは、単に環境に馴れて来たからという外面的の事情のためばかりではなく、人としての家持が、その青年時代を脱して壮年時代に入って来たためという、内面的のことが伴ってのことであって、そのほうがはるかに力強いものであったとみえる。このことは、家持の歌の取材の上に明らかに現われている。

 これを私人的の面から見ると、天平20年の春に、越中の掾大伴池主は、越前の掾に転任している。家持と池主との心のつながりのいかに深いものであるかは、前巻によってうかがわれる。しかるに家持は、その別離に際して一首の歌も詠んではいず、したがってその転任がいつであったかも知られないのである。濃情の家持がこのような態度をとりうるに至ったのは、その感傷を制御する力を持ち得たためで、まさに壮年時代の分別力の現われと見られる。

 それにもましてさらにこのことを思わせるのは、天平感宝元(勝宝元)年2月以前に、彼の嫡妻である大伴坂上大嬢が、京から彼の任地に来ていることである。家持は多くの女性と関係は結んだが、いわゆる猟奇者ではなく、彼がその愛情を傾注したのは大嬢一人だけであって、彼女と関係が深くなると、他の女性との交渉は絶ったまでであった。ことに越中の国守となった後は、その方面は謹厳そのもののように身を持していたことは、「庭中の花を詠めて作れる歌」に、「あらたまの年の五年、敷栲の手枕纏かず、紐解かず丸寝をすれば」(4113)といっているのでもうかがわれる。その大嬢がついに任地に来たのであるが、家持はそれについて、同じく1首の歌も詠んではいないのである。そのことのあったのを思わせるのは、感宝元年2月18日の歌に、「墾田の地を検察する事に縁りて、礪波の郡主帳田治比部北里の家に宿る。時に忽に風雨起りて、辞去することを得ずして作れる歌一首」と、詳しく事情をことわって「荊波の里に宿借り春雨に隠(こも)り障(つつ)むと妹に告げつや」(4138)と、妻に対する深い情を、従者に使命を果たしたかどうかを確かめる形で、さりげなくあらわしているのによって察しられるのである。この落ちつきと心濃やかさとは、壮年時代の態度というよりは、むしろ老年時代のそれである。

 私人としての家持が、一躍老成して来たことは、これらによって知られる。

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古典に親しむ

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