| 訓読 |
4044
浜辺(はまへ)より我が打ち行かば海辺(うみへ)より迎へも来ぬか海人(あま)の釣舟(つりぶね)
4045
沖辺(おきへ)より満ち来る潮(しほ)のいや増しに我(あ)が思(も)ふ君が御船(みふね)かも彼(かれ)
4046
神(かむ)さぶる垂姫(たるひめ)の崎(さき)漕ぎ廻(めぐ)り見れども飽かずいかに我れせむ
4047
垂姫(たるひめ)の浦を漕(こ)ぎつつ今日(けふ)の日は楽しく遊べ言ひ継(つ)ぎにせむ
4048
垂姫(たるひめ)の浦を漕ぐ舟(ふね)楫間(かぢま)にも奈良の我家(わぎへ)を忘れて思へや
4049
おろかにぞ我れは思ひし乎布(をふ)の浦の荒礒(ありそ)の廻(めぐ)り見れど飽かずけり
4050
めづらしき君が来まさば鳴けと言ひし山霍公鳥(やまほととぎす)何か来鳴かぬ
4051
多祜(たこ)の崎(さき)木(こ)の暗茂(くれしげ)に霍公鳥(ほととぎす)来(き)鳴き響(とよ)めばはだ恋ひめやも
| 意味 |
〈4044〉
浜の方を通って我らが行ったならば、海の方から迎えに来ないだろうか、海人の釣り舟が。
〈4045〉
沖の彼方からひたひたと満ちてくる潮のように、ますます増さって慕わしさの募るあなた、そのあなたのお乗りになるお船でしょうか、あれは。
〈4046〉
神々しい垂姫の崎を漕ぎ回って、いくら見ても見飽きることがない。私はどうしたらよいのか。
〈4047〉
垂姫の浦を漕ぎ回って、今日という日は楽しく遊んで下さい。後の語りぐさにいたしましょう。
〈4048〉
垂姫の浦を漕ぐ舟の、楫をほんのひと引きする合間にさえも、奈良の我が家を忘れたりすることがあろうか。
〈4049〉
私はいい加減に思っていました。実際に見てみると、乎布の浦の荒磯のあたりは、見ても見ても見飽きない所でした。
〈4050〉
珍しいお方がいらっしゃったら鳴け、と言っておいたのに、山ホトトギスよ、なぜ来て鳴かないのか。
〈4051〉
多祜の崎の木陰の茂みに、ホトトギスが来て鳴き立ててくれたら、こうもひどく恋しがることはないのに。
| 鑑賞 |
天平20年(748年)3月、春の出挙が終わって後に、都から左大臣・橘諸兄の特使として田辺福麻呂(たなべのさきまろ)が、大伴家持のいる越中を訪れました。橘諸兄はこの時すでに従一位・左大臣の位にあり、福麻呂は左大臣家に出向し、家事を兼任していたとされます。来訪した福麻呂は、23日に家持の館でもてなしを受け(巻第18-4032~4036)、26日の久米広縄(くめのひろつな)の館での集いに至るまで、家持らと連日にわたって交歓の場をもっています。福麻呂が越中国の家持を訪ねた目的ははっきりしていませんが、①橘氏の墾田地の獲得、②『万葉集』の編集、③中央の政治情勢の報告などの説が唱えられています。
4044・4045は、大伴家持の歌。題詞に「(三月)二十五日、布施の水海に往くに、道中、馬の上にして口号(くちずさ)ぶ」とあります。4044の「打ち行かば」の「打ち」は、馬を鞭打つ意。4045の上2句は「いや増しに」を導く譬喩式序詞。「いや増しに」は、ますます増さって。「君」は、客人の田辺福麻呂のこと。「御船かも彼」は、御船でしょうかあれは、の意で、「かも」は疑問の助詞。なお、4044を家持の歌、4045を福麻呂の歌と見る説もあります。
4046~4051は、3月25日、布施(ふせ)の水海に着いて遊覧したときに、一行のそれぞれが思いを述べて作った歌です。4046は、田辺福麻呂の歌。「神さぶる」は、神々しい意。「垂姫の崎」は、布勢の水海の南岸の、今の氷見市大浦、堀田付近で、二上山の北麓。乎敷の埼とともに半島をなして水海に突出していたろうといわれます。「いかに我れせむ」は、私はどうしたらよいのか、で、感嘆のあまり、身をもてあつかいかねる意。
4047は、宴席に侍していた遊行女婦の土師(はにし:伝未詳)の歌。「今日の日は」のように時を特定して現在の良さを強調する表現は、次句の「楽しく遊べ」とともに宴歌によくみられる例です。同席の人たちへの挨拶歌であり、主として客の福麻呂に対して言ったものとされます。土師の歌は4067にも見えます。
4048は、主人の大伴家持の歌。「楫間にも」の「楫間」は、櫓を漕ぐ合間で、短い間の譬喩。「我家」は、ワガイヘの約。「忘れて思へや」は、忘れることも思い方の一つと見た表現。「や」は反語で、忘れたりすることがあろうか。窪田空穂は、「妻恋しい旅愁をうち出していったものである。宴歌の中でも、旅にあってのそれは、妻恋しい旅愁を詠むのが型のようになっている。これもそれであろう。しかしそれだけではなく、不日京へ帰る福麿を思うと、それに刺激されるところもあったものであろう」と述べています。
4049は、田辺福麻呂の歌。「おろかにぞ」は、粗略に、通りいっぺんに。「思ひし」の「し」は、上の「ぞ」の係り結び。「乎布の浦」は、布施の水海の東南部の浦。「荒磯」は、岩の多い荒涼とした海岸をいう語ですが、万葉後期になると「荒」の意は弱まり、人気のない静かな磯をいう歌語として固定しました。前に布勢の水海の遊覧を勧められた時、「如何にある布勢の浦そも」といって粗略にしていたことに対する陳謝の気持が込められているようです。
4050は、掾(じょう:国司の三等官)の久米朝臣広縄(くめのあそみひろつな)の歌。「めづらしき君」の「君」は、客の福麻呂のこと。「来まさば」は「来ば」の敬語。「何か来鳴かぬ」は、どうして来て鳴かないのか、と咎めていっているもの。ここで初めて登場した久米広縄は、以下、家持の越中在任中にしばしば名前を見せます。生真面目な人柄だったようで、大伴池主に次いで家持を地道に支えたことが知られます。なお、ここに名前の見えない池主は、これ以前に越前国の掾として転出していました。
4051は、家持の歌。「多祜の崎」は、乎布の浦の東南の崎。「木の暗茂」は、木が茂って暗いところ。「はだ恋ひめやも」の「はだ」は、ひどく、たいそう。「めやも」は、反語。上の広縄のホトトギスの歌を承け、福麻呂に対するお詫びの挨拶歌の体で締めくくられています。

布勢の水海
布勢の水海は、長年にわたる土砂の堆積と中世以降の干拓によって、現在は細長い十二町潟を残すのみになっていますが、当時は国庁に近かった上に、湖上の白波・水鳥・ホトトギス、わけて岸の藤波と景物が多く、家持ほか官人らのたびたびの遊覧社交の場となっていました。歌では、天平19年4月、同20年3月、天平勝宝2年4月6日と同12日の4回の遊覧が見られ、ここの歌は2回目の時のものです。『万葉集』中、布勢の水海一帯の地名が、布勢・垂姫・乎布・多祜の浦々崎々にわたって延べ33も集中している(題詞・左注を含む)ことからも、彼らの愛好賛美のほどが知られます。
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