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巻第18(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第18-4052~4055

訓読

4052
霍公鳥(ほととぎす)今鳴かずして明日(あす)越えむ山に鳴くとも験(しるし)あらめやも
4053
木(こ)の暗(くれ)になりぬるものを霍公鳥(ほととぎす)何か来鳴かぬ君に逢へる時
4054
霍公鳥(ほととぎす)こよ鳴き渡れ燈火(ともしび)を月夜(つくよ)に比(なそ)へその影も見む
4055
可敝流(かへる)みの道(みち)行(ゆ)かむ日は五幡(いつはた)の坂に袖(そで)振れ我(わ)れをし思はば

意味

〈4052〉
 ホトトギスよ、今鳴かないで明日私が越えていく山で鳴いても、何の甲斐があるだろうか。
〈4053〉
 木がこんもりと茂る季節になったというのに、ホトトギスよ、どうして来て鳴いてくれないのか。めったに逢えないお方と逢っているこの時に。
〈4054〉
 ホトトギスよ、ここを鳴き渡っておくれ。燈火を月の光に見立てて掲げ、飛ぶその姿も見たいものだ。
〈4055〉
 都に帰るという可敝流(かへる)の山のあたりを通って行く日には、五幡(いつはた)の坂で袖を振って下さい。私どもの忘れ難さを思って下さるなら。

鑑賞

 天平20年3月26日、掾(じょう:国司の三等官)久米朝臣広縄(くめのあそみひろなわ)の館で、左大臣橘諸兄の特使として越中に来ていた田辺福麻呂(たなべのさきまろ)をもてなして宴を催したときに詠まれた歌です。広縄の館は、前任者の大伴池主の館を受け継いだもので、高岡市伏木町一ノ宮大塚の地にあったとされます。国司の館は公舎であり、後任者に引き継ぐことが定められていました。福麻呂が越中に滞在した期間は不明ですが、この日の宴が、帰京する福麻呂の送別会だったとみられます。

 
4052は、田辺福麻呂の歌。「今鳴かずして」は、今(この宴会の席で)鳴かないで。「明日越えむ山に」は、明日、私が(都へ帰るために)越えていくであろう山で。帰京を翌日に控えてのものであることが知られます。「験あらめやも」の「験」は、効果、甲斐。「めやも」は、反語で、何の甲斐があろうか、ありはしない。

 
4053は、主人の久米広縄の歌。「木の暗」は、木々が青葉で生い茂り、その下やあたり一面が薄暗くなること。また、夕暮れになって木陰が暗くなること。「になりぬるものを」は、〜になってしまったというのに。「何か来鳴かぬ」は、どうしてやって来て鳴かないのか、いや、鳴くべきだ。「君に逢へる時」は、あなたにお逢いできている、まさにこの時に。「君」はゲストである田辺福麻呂を指します。

 4054・4055は、
大伴家持の歌。4054の「こよ」は、ここを通って。「燈火」は、菜種油の燈火で、当時は貴重なものだったとされます。「月夜に比へ」は、月夜の明るさに見立てて、月夜の光になぞらえて。「その影も見む」は、その(ホトトギスの)姿をも見よう。「影」は、現代の「光が遮られた黒い影」ではなく、古語では「光・姿・形」を意味します。ここでは、灯火に照らされて夜空を横切るホトトギスの姿(シルエット)のことです。

 
4055の「可敝流みの」の「可敝流」は、福井県南条郡南越前町今庄の地で、(都へ)帰る意を掛けています。「み」は「廻」で、あたりの意。「五幡の坂」は、敦賀市五幡付近の山坂で、「いつ、はた(また)逢おう」の意を掛けています。「我れをし思はば」の「し」は、強意の副助詞。可敝流は山のこちら側、五幡は山の向こう側で、この山越えは当時、都と越路を隔てる最大の難関だったといいます。家持は、福麻呂との別れに際して、直接に惜別の語を使わず、婉曲に別れの嘆きをうたっています。
 


橘家からの使者

(『孤愁の人 大伴家持』小野寛著/新典社から引用)

 3月23日、左大臣橘家の使者として、造酒司令史(さけのつかさのさかん)田辺福麻呂がはるばる越中まで、家持を訪ねてやって来た。左大臣橘諸兄はこの年65歳、台閣の筆頭、いわば内閣総理大臣に当たる。天平9年(737年)に藤原四卿が天然痘流行に敗れて全滅、橘諸兄が筆頭に登って大納言、そして天平10年右大臣、15年(743年)左大臣と順調に政界の頂上に坐って来た。諸兄に続くのは79歳の中納言巨勢奈弖麻呂(こせのなでまろ)と46歳の藤原豊成であった。豊成の弟仲麻呂は43歳で、すでに参議として台閣につらなっていた。

 家持は大伴氏の将来の棟梁として早くに橘家の宴につらなり、諸兄に目をかけられていたことが想像される。弱冠29歳で越中の国守に任ぜられたのも、左大臣諸兄の推挽であっただろう。

 橘家の使者の用向きは何であったかわからない。使者の田辺福麻呂は、宮内省に所属する造酒司の三等官で、令の規定によれば、大初位上相当という八位より下の低い位の官であった。福麻呂の家系も履歴もわからないが、万葉集に「田辺福麻呂歌集」所出の歌が31首と、この越中での歌13首、合計44首を収録されて、万葉歌人として歌数では第8位である。万葉集にその歌集が認められていること、その歌には新京を讃える歌や古京を思慕する歌など宮廷関係の歌が多く、宮廷歌人的な存在としてその才能を高く評価されていた。その歌人福麻呂が選ばれて橘諸兄の使者に立っていることから、この万葉集になる歌巻の編纂に関する連絡であったかと想像する説もある。

 福麻呂は家持に、左大臣諸兄の歌に始まる元正上皇(聖武天皇の伯母に当たる)の難波離宮行啓に供奉して歌われたという、「橘」讃歌ともいうべき歌を7首、伝誦した(巻18-4056~4062)。(中略)元正上皇と左大臣橘諸兄との熱い関係、しっかりした絆に、家持は感動した。元正上皇が健在な限り、左大臣橘諸兄の権勢は微動だにしないと、家持は確信した。家持も「橘」の讃歌に追和して歌った(巻18-4063・4064)。

 (中略)家持は諸兄の政権の不動を確信していたが、福麻呂の越中到着の前日、3月22日、藤原豊成は従三位から従二位に二階級特進、そして大納言を拝命した。参議藤原仲麻呂も従三位から正三位に昇った。光明皇后を後楯として藤原兄弟の力が確実に諸兄に迫って来ていた。

 そして4月21日、元正上皇が崩御された。69歳という。橘諸兄は大きな後楯を失い、一か月前に家持が讃えた橘の輝きは危うくなった。しかし、その実感は越中の家持にはまるでなかったようである。

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