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巻第18(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第18-4056・4057

訓読

4056
堀江(ほりえ)には玉(たま)敷(し)かましを大君(おほきみ)を御船(みふね)漕がむとかねて知りせば
4057
玉 敷(し)かず君が悔(く)いて言ふ堀江(ほりえ)には玉敷き満(み)てて継ぎて通(かよ)はむ〈或いは云ふ、玉 扱(こ)き敷きて〉

意味

〈4056〉
 堀江に玉を敷き詰めておくのでした。わが大君がここで御船にお乗りになるとわかっていましたら。
〈4057〉
 玉を敷かないのをあなたが悔やむこの堀江には、私が隅まで玉を敷いて、何度も通い続けましょう。〈私が玉を散らして敷いて〉

鑑賞

 元正太上天皇(太上天皇は上皇のことで、退位後の第44代元正天皇)の難波宮滞在時の歌。元正天皇は、養老8年(724年)2月4日に、甥の聖武天皇に譲位しました。左注に「御船で堀江をさかのぼって舟遊びをした日に、左大臣の橘諸兄が奏上した歌と御製」とあり、4056が橘諸兄の歌、4057が太上天皇の御製です。

 
4056の「堀江」は、難波の堀江のことで、仁徳天皇の時代に開削されたとされる運河。今の天満橋あたりの大川とされます。「玉敷かましを」の玉は、美しい宝石(真珠や白玉など)。ここは客人を迎える際、道を清らかにするために敷く小石。「敷かましを」は、敷き詰めておいただろうに。「御船漕がむと」は、お船をお漕ぎになると(お乗りになって遊覧されると)。「かねて知りせば」は、あらかじめ知っていたならば。

 
4057の「玉敷かず君が悔いて言ふ堀江には」は、玉を敷かなくて、君が後悔していうこの堀江には。「玉敷き満てて」は、(それなら今からでも)美しい玉を一面に敷き詰めて。「継ぎて通はむ」は、続いて通おう。諸兄の自身の不注意を謝する歌に対し、太上天皇はおおらかにお答えになっており、君臣の親和のさまがうかがわれる御製です。

 天平16年(744年)閏1月11日から11月14日まで、元正太上天皇は橘諸兄とともに難波宮にあり、ここの歌はその間の夏に詠まれたものとされます。一方、
聖武天皇藤原仲麻呂とともに紫香楽宮(しがらきのみや)にいました。この間、聖武不在のまま、難波を皇都とする勅が発せられており、当時、難波と紫香楽の二重政権が存在したのではないかとの説もあります。とすると、ここの2首は相当に政治的意味合いの強い歌であることになります。

 なお、ここの歌がこの位置に配されているのは、前にある、天平20年(748年)3月26日の、
久米広縄の館での宴(4052~4055)において披露されたことによります。伝誦者はいずれも客人の田辺福麻呂であり、福麻呂は橘諸兄の配下にあったためにこの歌を知っていました。翌3月27日の帰京を控えての送別の宴で都のことが話題になる中、特に家持と福麻呂の精神的支柱であった元正上皇や橘諸兄のことなどに話題が及び、おそらくは家持の要請によって披露したものと見られています。二人の強い絆に家持は感動し、元正上皇が健在な限り、諸兄の権勢はゆるがないと確信したことでありましょう。
 


元正天皇の略年譜

680年  草壁皇子と元明天皇の間の長女として誕生。名は氷高皇女(ひだかひめみこ)
715年 母の元明天皇から譲位され、第44代天皇として即位。霊亀と改元
717年 美濃国に行幸し、多度山の美しい泉(養老の滝)に感動して養老と改元
718年 藤原不比等らにより『養老律令』が撰修される
720年 5月、舎人親王らによって『日本書紀』が完成・撰進される
723年 墾田永年私財法の原型となる「三世一身法」を発布
724年 皇太子(首皇子:のちの聖武天皇)へ譲位。太上天皇(上皇)となる
744年 聖武天皇の紫香楽行幸の際、難波宮に留まり政治を後見する
748年 崩御。享年69

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橘諸兄の略年譜

684年 美努王と橘三千代の間に生まれる
710年 無位から従五位下に
724年 聖武天皇が即位
    従四位下に叙せられる
729年 藤原四兄弟の陰謀により、長屋王が自殺(長屋王の変)
736年 臣籍降下、橘諸兄と名乗る
737年 天然痘の流行で藤原四兄弟が死去
    大納言に任ぜられる
738年 正三位、右大臣に任ぜられる
740年 藤原広嗣が政権を批判(藤原広嗣の乱)
    諸兄の本拠地に近い恭仁京に遷都
743年 従一位、左大臣に任ぜられる
    孝謙天皇が即位
    藤原仲麻呂の発言力が増す
749年 東大寺行幸に際し正一位に昇叙
756年 辞職を願い出て致仕
757年 死去、享年74
    子息の橘奈良麻呂が乱を起こし獄死

古典に親しむ

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