| 訓読 |
4073
月見れば同じ国なり山こそば君があたりを隔(へだ)てたりけれ
4074
桜花(さくらばな)今ぞ盛りと人は言へど我れは寂(さぶ)しも君としあらねば
4075
相(あひ)思はずあるらむ君をあやしくも嘆きわたるか人の問ふまで
| 意味 |
〈4073〉
月を見ていると、同じ一つの月が照らす国なのに、あなたの住んでいらっしゃるあたりは山が隔てています。
〈4074〉
桜の花は今まさに盛りと人は言いますが、私は寂しくてなりません、あなたと一緒でないので。
〈4075〉
私のことなど思って下さらないだろうあなたを、我ながら不思議と嘆き続けています。人が不審に思って問いかけるほどに。
| 鑑賞 |
越中から越前の掾(じょう:国司の三等官)に転任した大伴池主が、越中守の大伴家持に贈った歌です。池主の転任は、天平19年(747年)5月から翌年春の間に行われた人事によるとみられますが、その後も隣国どうしで親しく交流が続きました。ここの歌は天平21年(749年)3月15日の作です。序文に次のような意味の手紙文が載っています。
「今月の十四日に深見村に参り、あなたのいらっしゃる北方の地をはるかに拝しました。いつの日も休むことなく御徳を思っておりますが、その上ここは御国の近くなので、にわかにお慕いする気持ちが強くなりました。さらに先のお便りに『春の名残りは尽きないのに、いつ会えるとも期待できない。生きているのに会えない悲しみは何とも言いようがない』とありました。紙を前にして心がつらくなるばかり、拙いお手紙を差し上げるにも形が整いません」
深見村は越前国最北の加賀郡に位置し、池主が当地を訪れたのは、春の出挙(すいこ)を実施し監督するための巡行だったとみられています。4073は、題詞に「古人の云へる」とある歌。「同じ国なり」は、同じ日本という国の中なのだ、あるいは、同じ空の下なのだ、という意。「山こそば」の「こそ」+「ば」で、のちの「けれ」へと続く係結びを形成しつつ、隔てているのは他でもない山なのだと、山を強く強調・限定しています。「君があたり」は、家持のいる越中国府を指します。「隔てたりけれ」の「けれ」は詠嘆の助動詞(〜だったのだなあ)。「こそ」の結びとして已然形になっています。
4074は「属物発思」とある歌で、桜に触れて思いを起こした歌。「今ぞ盛りと」は、今こそが(見頃の)全盛期だと。「ぞ」は係助詞で、「今」を強く強調しています。「人は言へど」は、世間の人々は言うけれど。「我れは寂しも」の「しも」は、強意の副助詞「し」+詠嘆の終助詞「も」。「君としあらねば」の「し」は、強意の副助詞。貴方と一緒にいるのでなければ(貴方が一緒にいてくれないので)。
4075は「所心歌」とあり、思うところを述べた歌。「相思はずあるらむ」は、私のことなど(同じようには)思ってはいないだろう。「君を」は、そんな貴方のことを。「あやしくも」は、奇妙なことに、不思議なほどに、自分でも訳が分からないくらいに。「嘆きわたるか」の「か」は詠嘆の終助詞で、ずっとため息をつき(嘆き)続けていることよ。「人の問ふまで」は、周囲の人が心配して尋ねてくるほどまでに。これらの池主が贈った歌に対し家持がお返しに贈った歌が、4076~4079にあります。

大伴池主
池主が文人活動として姿を見せるのは、天平10年(738年)10月に行われた橘奈良麻呂結集の宴(巻第8-1590)が最初です。この頃、春宮坊少属従七位。天平18年8月に家持が越中国守として赴任する以前に、掾(従七位相当)として越中国にありました。8月7日の家持歓迎の宴(巻第17-3943~3956)以来、家持との親交が深まり、二人の間に多くの歌々が取り交わされました。翌19年9月頃に越前掾に遷任し、さらに中央に戻ったようですが、天平勝宝9年(757年)7月、橘奈良麻呂の変に連座して投獄されました。その後の消息は不明で、杖下に死を遂げたものと見られます。
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春の出挙
春に公の稲を貸し出し、秋冬に収穫の中から5割の利息をつけて返済させる制度のことです。農業推進と貧農救済のためであるとともに、諸国府の有力な財源でもありました。もっとも、家持の時代には、租税の一部として強制的に割り当てられるようになっており、農民の負担は大きかったようです。また、国が貸し付ける公出挙(くすいこ)と、私人が貸し付ける私出挙(しすいこ)とがありました。公出挙について、その割り当てが適正に行われているか、その状況を知ることは国守の重要な務めでした。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |