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巻第18(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第18-4080~4084

訓読

4080
常人(つねひと)の恋ふといふよりはあまりにて我(わ)れは死ぬべくなりにたらずや
4081
片思ひを馬にふつまに負(お)ほせ持て越辺(こしへ)に遣(や)らば人かたはむかも
4082
天離(あまざか)る鄙(ひな)の奴(やつこ)に天人(あめひと)しかく恋すらば生ける験(しるし)あり
4083
常(つね)の恋いまだやまぬに都より馬に恋(こひ)来(こ)ば担(にな)ひ堪(あ)へむかも
4084
暁(あかとき)に名告(なの)り鳴くなる霍公鳥(ほととぎす)いやめづらしく思ほゆるかも

意味

〈4080〉
 世間の普通の人が「恋しい」と言う、そのレベルなんかよりも遥かに行き過ぎてしまって、私はもう、死んでしまいそうなほどになっているではありませんか。
〈4081〉
 私の片思いを、すっかり馬に背負わせて越の国へ遣わせば、誰かが手助けしてくれるでしょうか。
〈4082〉
 都から遠く離れた片田舎の私ごときに、天の人がこんなに恋して下さるなんて、生きている甲斐があるというものです。
〈4083〉
 平常のあなたに対する恋が未だやまないのに、都から馬でどっさり恋の荷物がやって来たら、私なんかに荷いきれるでしょうか。
〈4084〉
 暁に、自分の名を告げながら鳴くホトトギスの声を聞くように、いよいよ懐かしく思われてなりません。

鑑賞

 4080・4081は、天平20年(748年)3月、京にいる大伴坂上郎女が、越中に国守として赴任している甥の家持に贈った歌。4082~4084は、家持が答えた歌。

 
4080の「常人」は、世間一般の人、ふつうの人。「恋ふといふよりは」は、(あの人が)恋しい」と言う、その程度に比べたら。「あまりにて」は、度が過ぎて、通り越して。「死ぬべく」は、死んでしまいそうに、死にそうなくらい。「なりにたらずや」はナリニテアラズヤの約で、なったではありませんか。この歌について、窪田空穂は次のように評しています。「少年時代より世話をし、また娘の聟となっている家持に、叔母としての思慕の情を訴えた歌である。『死ぬべくなりにたらずや』は、遠く別れていることが何年にもなり、思慕の情が次第に募り、今は堪えられなくなったことをいったもので、自然な、含蓄のある語である。一首、思慕の気分の説明であるが、自然に、静かに流れ出す気分を、落ちついて、確かに言い続けているので、独自の気品を備えたものとなっている」。

 
4081の「ふつまに」は、すべて、悉く。あるいは、びっしりと、隙間なく、いっぱいに、の意。「負はせ持て」は、背負わせて。 「越辺に遣らば」は、越の方向へ送り出したなら。「人かたはむかも」の「人」は、暗に家持を指しています。「かたふ」の語義未詳で、上掲の解釈のほか、心を寄せて親しむ、欺き奪う、などの解釈もあります。「かも」は、疑問的詠嘆の終助詞。8音の字余り句ですが、句中に推量・意志の助動詞「む」を含む場合は字余りが許容されるといいます。

 
4082の「天離る」は、天(都)から遠く離れているの意で「鄙」にかかる枕詞。「鄙」は、都から遠い地方、田舎。「鄙の奴に」の「奴」は、ここでは自分を卑下して言った称。「天人」は、天上界の人。ここでは郎女のことで、4080の「常人」を承けて戯れに言っています。「し」は強調の副助詞で、天人(のようなあなた)こそが、と、相手を際立たせる役割を持ちます。「かく恋すらば」は、これほどまでに(私を)恋してくださるならば。「生ける験あり」は、生きている甲斐がある。

 
4083の「常の恋」は、平常、郎女に対して持っている恋心。「いまだやまぬに」は、まだ収まっていないのに、今でも十分溢れんばかりに続いているのに。「都より馬に恋来ば」は、「恋」を物質化しており、都にいる愛しい人からの私を恋うる気持ちが、馬に乗ってこちらへやってきたならば、の意。「担ひ堪へむかも」は、担いきれるでしょうか。郎女の4081の歌との美しいキャッチボールになっています。

 
4084の「暁」は、夜が明けようとする一歩手前の、まだ暗い時間帯(未明)。「名告り鳴くなる霍公鳥」は、自分の名を言っているように鳴くホトトギス。その鋭いさえずりが、万葉人には自身の名を叫んでいるように聞こえたことからくる、伝統的かつ風流な表現です。「いやめづらしく」の「いや」は、いよいよ。「めづらし」は、新鮮で素晴らしい、愛おしい。「思ほゆるかも」は、「思ふ」の自発の形「思ほゆ」+ 詠嘆の終助詞「かも」。

 なお、郎女の娘で家持の妻の
坂上大嬢は、家持の越中赴任中に同地へ下ったことは確かなようですが、少なくともこの時点では、まだ越中に着いておらず、母の坂上郎女とともに奈良に住んでいます。

ホトトギス

 ホトトギス科の鳥で、鳩よりやや小さく全長27、8cm。頭と背が黒っぽい灰色、腹は白く、黒い黄斑があります。冬は南方で過ごし、日本へは初夏(5月ごろ)に渡来し、山から人里に来て鳴きます。鳴き声は、テッペンカケタカまたはトッキョキョカキョクなどと聞き馴らされています。万葉時代とくに後期以降に愛好され、集中に詠まれた鳥の中で最も多く、153首に歌われています。中でも大伴家持に64首もあり、こよなくホトトギスを愛したことが窺えます。

 なお、『万葉集』でのホトトギスの表記は、一字一音で書く以外はすべて「霍公鳥」となっています。中国では一般に杜鵑、子規、杜宇などのほか多くの表記がありますが、霍公鳥はなく、出典が明らかではありません。これを音読すれば、クヮクコウ鳥であるため、郭公(かっこう)と何らかの関係があるものと考えられます。両者はともに鳴き声からつけられた名で、鳴き方はホトトギスが鋭く激しいのに対し、カッコウはのどかにゆったり鳴くので、対照的です。しかし、ともにホトトギス科に属し、体長はカッコウがやや大きい程度で、体形・体色それに托卵の習性など、多くの類似点があります。しかも『万葉集』には、あの親しみやすい鳴き声のカッコウを詠んだ歌が一首もないことが、古くから問題とされています。

 そこで、万葉でいうホトトギスは、霍公鳥の文字からしても、実はカッコウではないかとか、両者を含むホトトギス科の鳥の総称であろうとか、あるいは当時はそれぞれを別の鳥とする認識がなく、同じ鳥が夜昼や雌雄または幼鳥と成鳥などの違いによってさまざまに鳴くと考えられていたのだろう、などと言われています。

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。