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巻第19(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第19-4142・4143

訓読

4142
春の日に張れる柳(やなぎ)を取り持ちて見れば都の大道(おほち)し思ほゆ
4143
もののふの八十娘子(やそをとめ)らが汲(く)み乱(まが)ふ寺井(てらゐ)の上の堅香子(かたかご)の花

意味

〈4142〉
 春の日に、芽吹いてきた柳の小枝を折り取って眺めると、奈良の都の大路が思い起こされてならない。
〈4143〉
 たくさんの乙女たちが、入り乱れては水を汲む、寺の境内にある井戸のそばに群がって咲いているカタクリの花よ。

鑑賞

 大伴家持の歌2首。4142は、天平勝宝2年(750年)の3月2日、「柳黛(りうたい)を攀(よ)ぢて京師(みやこ)を思(しの)ふ」歌。「柳黛」は、柳の葉を眉に見立てたもので、美女を連想した表現。「攀ぢて」は、引き寄せて折って。「張れる」は、芽が出る、ふくらむ。「大道し思ほゆ」の「し」は、強意。この歌から、当時の都大路の並木には柳が植えられていたことが分かります。4139・4140で詠んだ桃花や李と同様、柳もまた漢詩的な素材であり、中国には古くから歌われた『折楊柳(せつようりゅう)』という曲もあります。春は官人の叙任、交替の時期でもあります。越中生活も足かけ5年になる家持にとって、都への思いはひとしお募っていたことでしょう。とりわけ都大路は思い出多い場所であり、同時に都の美女たちのことも思い浮かべていたのかもしれません。

 4143は、同日に詠んだ「堅香子(かたかご)草の花を攀(よ)ぢ折れる」歌。「堅香子」は「かたくり」の古名。水辺の地に群生し、春先に清楚で可憐な紅紫色の花を咲かせます。「もののふの」は「八十」の枕詞。「八十」は、数の多いこと。「もののふ」は宮廷に仕える文武百官をいい、その数の多い意でかかります。「汲み乱ふ」は、入り乱れて汲む。「寺井」は、寺の境内にある井戸。「井」は、湧水、流水をせきとめ汲めるようにした所。どこの寺かは分かりませんが、国分寺などの井でしょうか。その井に集まってにぎやかに水を汲む乙女らの様子が、かたかごの花に託して詠まれています。かたかごの花を詠んだ歌は、集中この1首のみであり、この1首ゆえにかたかごの花は万葉の花として今にその名を残しています。

 
斎藤茂吉は、「我妹子にむかって情を告白するのではなく、若い娘等の動作にむかって客観的の美を認めて、それにほんのりした情をのべている」として、こういう手法もまた家持の発明と解釈することができる、と言っており、言語学者の犬養孝は、「大勢の水汲みのおとめたちの溌溂嬉々とした実景をとらえて、そのほとりの黒土の上にすっくとおどりでた可憐な花の構図を描く。このみやびと鄙びがやわらかにとけあった清らかに甘い美しさは、都を離れていたればこその収穫で、それだけに後年になってみれば、えがたい越路の思い出ぐさである」と述べています。

 また、文学者の
中西進は、「『もののふの八十』という言葉遣いは、すぐに有名な人麻呂の『もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波の行方知らずも』(巻第3-264)を連想させるだろう。この歌が近江朝廷に仕えた大宮人たち、それと重ね合わせた持統朝廷の自分たち官人をイメージしていたように、ここでも『もののふの八十』は朝廷奉仕の大宮人たちの連想だと考えなければならない。家持は、たしかに越中の国にいるのだが、心は都の大宮人の上にとんでいる。これは明らかに柳黛からの連想(4142)の中にあるが、その遠い都の大宮人たち、その朝廷にあった少女たち、それがカタカゴの花の喚起するイメージだったのである。一茎の花は一茎にとどまらない。広い風景を所有したものであった。この時、あのカタカゴの可憐な、うつぶして風に揺れる花、しかも紫というもっとも高貴な色をもった花が都の少女にふさわしい容姿をもっていたことは、いうまでもない」。
 


カタクリ

 比較的寒地を好む、ユリ科カタクリ属に属する多年草で、冬が終わり、雪が融けて地肌が現れると発芽し、春先の早い時期にローズピンクの花を咲かせます。うつむき加減に咲く花は独特で、見栄えがします。草丈は約15㎝あり、花が終わり結実すると種を落として地上部は枯れ、休眠に入ります。カタクリが地上に姿を現す期間は、1年のうち4~5週間しかありません。地中にある鱗茎は白色で、すりつぶすと良質なデンプンがとれます。これが、いわゆるくず粉で知られる「片栗粉」です。『万葉集』にカタクリが登場するのは、家持が越中国で詠んだこの1首だけです。美しい花ですが、大和地方ではあまり見られなかったのかもしれません。

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家持にとっての越中

窪田空穂の評論から――

 歌人家持を今日に存在させているおもなる原因は、彼が越中守に任ぜられた天平18年6月より天平勝宝3年8月に至る5年間の任期を、当時としては「天離る」といい「級ざかる」といった越中の国府に、単調にして無聊な生活を送らしめたことである。彼にはもともと歌人としての素質があったのであるが、もしこの環境がなかったならば、はたして大成し得たかどうかは疑わしいといえる。それは天平勝宝3年国守の任期が満ちて、その8月奈良の都に帰ると、越中時代の多作より一変して、じつに寡作の人となり、たまたま宴歌を作るにすぎない人となっている実事を見ても、この間の消息はうかがえる。天平勝宝3年は、彼はすでに足掛け6年間を越中に過ごしていたものであるが、その前年よりこの年に至る頃には、その作歌の跡から見ると、彼はじつにその生活の単調無聊に苦しんでいたことが知られる。着任の当座は、奈良京の人に共通のこととして、奈呉の海の眺望が珍しかった。国司館に接している二上山、遠く望まれる白山も珍しかった。海にも似て、しかも静かな布勢の水海は心を引かれる所として遊覧を楽しんだ。この巻の頃は、それらの風景に対する興味も薄らいだとみえ、作歌の直接の材料とすることはきわめて稀れになってしまい、比較的興味のあるのは、布勢の水海のみとなっている。生活に変化を与える遊びとしては、前よりの引続きとしての鷹狩があり、新たに鵜飼の遊びも加えて来たのであるが、これは季節の制限があって、短期間に限られてのものである。屋内生活としては、5年間を離れて過ごして来た妻の大伴大嬢が下って来ていたので、慰めるに足りるものがあったろうが、この人はその母に似ず、また家持にも似ずして、作歌の才を持ってはいなかったとみえる。これらのほかに慰めの途を求めると、下僚との交わりであるが、この頃は宴楽が少なかったとみえ、酒に付き物となっている宴歌が少なく、のみならず宴歌の代表的の型となっている恋の歌がほとんど見えない。これは家持が身を持すること謹厳で、自身その種の歌を避けていたところから、おのずから風をなしたのではないかと思われる。

 事態がこのようであったから、家持のその日々の単調と無聊をまぎらし慰めるものとしては、その好むところの作歌をするよりほかはなかったのである。作歌は、外部よりの刺激と、外部の者に示そうとする刺激よりする場合が多い。歌が社交の具となったがごとき風を示しているこの時代は、ことにそれであったといえる。しかるに家持にはその刺激が全くなかった。同族であり、唯一の心合いの下僚であるとともに、作歌作詩の上に秀でた才を持った大伴池主がいなくなってからは、彼には一人の詩友もなかった。池主の後任者であった久米広繩は、多少の作歌の才を持っており、家持の最も親しさを感ずる者ではあったが、池主には及ぶべくもなく、彼を刺激する者とはなり得なかった。したがって池主に対したがごとく、その作歌を示そうとするまでの心にはならなかったとみえ、事実してもいないのである。作歌の上では家持は全く外部から絶縁されており、社交上の必要から作らせられ、示さなくてはならない稀れな場合のほかは、歌を通しての外部との交渉は全くなかったのである。

 家持の没頭していた作歌は、純粋に文芸的衝動によってさせられるものだったのである。加えて、国守の任期は5年と定まっていたので、今はその満期帰京も眼に近いものとなって来、それが本能的にもたされている都へ対する憧れの情をあおり、ますます単調無聊の感を深めて来たろうから、一意専心、作歌をしたがごとくである。この種の作歌を続けてゆけば、その人が歌人的素質を持っている人である限り、作歌はその人自身を掘り下げて、平常はそれと意識せずにいるその人の本質の深所奥所を把握せしむる屈強の物となり、またそれをなし遂げさせずにおかない物ともなって来る。家持はこの時代においてそれをなし遂げたのである。

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。