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巻第19(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第19-4156~4158

訓読

4156
あらたまの 年行き変はり 春されば 花のみにほふ あしひきの 山下(やました)響(とよ)み 落ちたぎち 流る辟田(さきた)の 川の瀬に 鮎子(あゆこ)さ走(ばし)る 島つ鳥(とり) 鵜飼(うかひ)伴(ともな)へ 篝(かがり)さし なづさひ行けば 我妹子(わぎもこ)が 形見(かたみ)がてらと 紅(くれなゐ)の 八入(やしほ)に染めて おこせたる 衣(ころも)の裾(すそ)も 通りて濡(ぬ)れぬ
4157
紅(くれなゐ)の衣(ころも)にほはし辟田川(さきたがは)絶ゆることなく我(わ)れかへり見む
4158
年のはに鮎(あゆ)し走らば辟田川(さきたがは)鵜(う)八(や)つ潜(かづ)けて川瀬(かはせ)尋(たづ)ねむ

意味

〈4156〉
 年が改まって春になると、花々が咲きにおう。山のふもとを轟き落ちて流れる辟田の川の浅瀬を、若鮎が走っている。鵜飼いの者たちを伴って篝火を焚き、流れに浸かって上って行くと、妻が形見かたがた着てくださいと、紅色に色濃く染めて送ってくれた衣、その衣の裾が川の水にぐっしょり濡れた。
〈4157〉
 紅の衣が水に濡れて色美しくなる、この辟田川の流れが絶えないように、私もまた幾度もやって来て見よう。
〈4158〉
 来る年ごとに、鮎が走り泳ぐようになったら、辟田川に鵜を幾羽も潜らせて川瀬を辿って行こう。

鑑賞

 大伴家持の歌。題詞に「鵜(う)を潜(かづ)く歌」とあり、鵜飼を詠んだ歌です。天平勝宝2年(750年)3月8日作。4156の「あらたまの」は「年」の枕詞。「花のみにほふ」の原文「花耳尓保布」の「耳」は「開」の誤りだとして、ハナサキニホフとする見方があります。「あしひきの」は「山」の枕詞。「辟田」は、所在未詳。「鮎子」は、若鮎。「さ走る」の「さ」は、接頭語。「島つ鳥」は「鵜」の枕詞。島に棲む鳥の意でかかります。「鵜飼」は、鵜を使って魚を獲ることを職とする人。「伴へ」は、伴って、引き連れて。「篝さし」は、篝火をともして。「なづさひ」は、水に浸かって。「形見がてらと」は、形見かたがた、形見をかねてと。家持が単身赴任の時分に大嬢が都から送ってきた物なので、こう言ったと見えます。「八入」は、何度も染めること。「おこせたる」は、送ってくれた。

 
4157の「衣にほはし」は、衣の色を美しくして。ここは長歌の結句「通りて濡れぬ」を受け、水に濡れて美しくなったという意。4158の「年のは」は、毎年。「鵜八つ潜けて」は、鵜を多く水に潜らせて。鵜飼の様子を詠んだ歌であり、鵜飼いのことは『隋書倭国伝』にも記載があるほどに、古代から行われていました。その様子は『万葉集』にも10首近く詠まれています。
 

家持にとっての越中

窪田空穂の評論から――

 歌人家持を今日に存在させているおもなる原因は、彼が越中守に任ぜられた天平18年6月より天平勝宝3年8月に至る5年間の任期を、当時としては「天離る」といい「級ざかる」といった越中の国府に、単調にして無聊な生活を送らしめたことである。彼にはもともと歌人としての素質があったのであるが、もしこの環境がなかったならば、はたして大成し得たかどうかは疑わしいといえる。それは天平勝宝3年国守の任期が満ちて、その8月奈良の都に帰ると、越中時代の多作より一変して、じつに寡作の人となり、たまたま宴歌を作るにすぎない人となっている実事を見ても、この間の消息はうかがえる。天平勝宝3年は、彼はすでに足掛け6年間を越中に過ごしていたものであるが、その前年よりこの年に至る頃には、その作歌の跡から見ると、彼はじつにその生活の単調無聊に苦しんでいたことが知られる。着任の当座は、奈良京の人に共通のこととして、奈呉の海の眺望が珍しかった。国司館に接している二上山、遠く望まれる白山も珍しかった。海にも似て、しかも静かな布勢の水海は心を引かれる所として遊覧を楽しんだ。この巻の頃は、それらの風景に対する興味も薄らいだとみえ、作歌の直接の材料とすることはきわめて稀れになってしまい、比較的興味のあるのは、布勢の水海のみとなっている。生活に変化を与える遊びとしては、前よりの引続きとしての鷹狩があり、新たに鵜飼の遊びも加えて来たのであるが、これは季節の制限があって、短期間に限られてのものである。屋内生活としては、5年間を離れて過ごして来た妻の大伴大嬢が下って来ていたので、慰めるに足りるものがあったろうが、この人はその母に似ず、また家持にも似ずして、作歌の才を持ってはいなかったとみえる。これらのほかに慰めの途を求めると、下僚との交わりであるが、この頃は宴楽が少なかったとみえ、酒に付き物となっている宴歌が少なく、のみならず宴歌の代表的の型となっている恋の歌がほとんど見えない。これは家持が身を持すること謹厳で、自身その種の歌を避けていたところから、おのずから風をなしたのではないかと思われる。

 事態がこのようであったから、家持のその日々の単調と無聊をまぎらし慰めるものとしては、その好むところの作歌をするよりほかはなかったのである。作歌は、外部よりの刺激と、外部の者に示そうとする刺激よりする場合が多い。歌が社交の具となったがごとき風を示しているこの時代は、ことにそれであったといえる。しかるに家持にはその刺激が全くなかった。同族であり、唯一の心合いの下僚であるとともに、作歌作詩の上に秀でた才を持った大伴池主がいなくなってからは、彼には一人の詩友もなかった。池主の後任者であった久米広繩は、多少の作歌の才を持っており、家持の最も親しさを感ずる者ではあったが、池主には及ぶべくもなく、彼を刺激する者とはなり得なかった。したがって池主に対したがごとく、その作歌を示そうとするまでの心にはならなかったとみえ、事実してもいないのである。作歌の上では家持は全く外部から絶縁されており、社交上の必要から作らせられ、示さなくてはならない稀れな場合のほかは、歌を通しての外部との交渉は全くなかったのである。

 家持の没頭していた作歌は、純粋に文芸的衝動によってさせられるものだったのである。加えて、国守の任期は5年と定まっていたので、今はその満期帰京も眼に近いものとなって来、それが本能的にもたされている都へ対する憧れの情をあおり、ますます単調無聊の感を深めて来たろうから、一意専心、作歌をしたがごとくである。この種の作歌を続けてゆけば、その人が歌人的素質を持っている人である限り、作歌はその人自身を掘り下げて、平常はそれと意識せずにいるその人の本質の深所奥所を把握せしむる屈強の物となり、またそれをなし遂げさせずにおかない物ともなって来る。家持はこの時代においてそれをなし遂げたのである。

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。