本文へスキップ

巻第19(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第19-4169・4170

訓読

4169
ほととぎす 来(き)鳴く五月(さつき)に 咲きにほふ 花橘(はなたちばな)の かぐはしき 親の御言(みこと) 朝夕(あさよひ)に 聞かぬ日まねく 天離(あまざか)る 鄙(ひな)にし居(を)れば あしひきの 山のたをりに 立つ雲を よそのみ見つつ 嘆くそら 安けなくに 思ふそら 苦しきものを 奈呉(なご)の海人(あま)の 潜(かづ)き取るといふ 白玉(しらたま)の 見(み)が欲(ほ)し御面(みおもわ) 直(ただ)向かひ 見む時までは 松柏(まつかへ)の 栄(さか)えいまさね 尊(たふと)き我(あ)が君
4170
白玉(しらたま)の見(み)が欲(ほ)し君を見ず久(ひさ)に鄙(ひな)にし居(を)れば生けるともなし

意味

〈4169〉
 ホトトギスが来て鳴く五月に咲きにおう橘の花のように、かぐわしい母上様のお言葉、そのお声を朝夕に聞かない日が積み重なり、遠く離れた田舎にいるものですから、山々の間に立つ雲を見ては、嘆く心も休まる時はなく、苦しくてなりません。ここ、奈呉の海の海人(あま)が潜って採るという真珠のように、拝見したいと思う母上様のお顔、そのお顔を目の当たりに見る時まで、どうか松や柏のようにお元気でいて下さい。尊い母上様。
〈4170〉
 真珠のようにお目にかかりたくてならない母上様なのに、お逢いできないまま長く田舎にいるので、生きた心地もいたしません。

鑑賞

 大伴家持の歌。天平勝宝2年(750年)3月に作った歌で、題詞に「妻が、都に在(いま)す尊母に贈るというので、頼まれて作る」とあります。妻は坂上大嬢、尊母は叔母でまた外姑(しゅうとめ)である坂上郎女のことです。家持は、はじめ単身で越中に赴任していましたが、この時までには大嬢を呼び寄せていたようです。大嬢が越中に来たのはこの前年とする説がありますが、はっきりしません。

 
4169の冒頭の4句は「かぐはしき」を導く譬喩式序詞。「かぐはし」は香よき意ですが、ここは優れて、立派である意。「まねく」は、数の多いこと。「天離る」は「鄙」の枕詞。「鄙」は、都から遠い地方、田舎。「あしひきの」は「山」の枕詞。「山のたをり」は、山の尾根のくぼんだところ。「よそ」は、遠く。「嘆くそら安けなくに」の「そら」は、気持ち。「安けなくに」は、安らかでないのに。「奈呉」は、射水市放生津潟の海浜。「奈呉の海人の」以下3句は「見が欲し」を導く譬喩式序詞。「見が欲し」は、見ることが願わしい。「御面」の「面」は、顔つき。「松柏の」は「栄ゆ」の枕詞。「栄えいまさね」の「います」は、敬語。「尊き我が君」は、親や主君を親しみ尊んで呼ぶ表現。

 
4170の「白珠の」は「見が欲し」にかかる比喩的枕詞。「見ず久に」は、見ないことが久しく。「生けるともなし」の「と」は、心持、しっかりした心。

 妻大嬢の代作とはいえ、相手の坂上郎女は家持の叔母であり、幼少時からの育ての親であるわけですが、
窪田空穂は、「全体として見ると、この種の歌の生命である情味が乏しく、儀礼の歌という感のあるものである。・・・何ゆえに情味が乗って来ないかと恠(あや)しませる」と言っています。これに対しては、本歌に詠まれた「橘」「白珠」「松柏」の3語の寿詞的性格から、坂上郎女の五十賀(郎女の生年を大宝元年:701年とする説)を言祝ぐ特別な歌だったのだろうとする見方があります。
 

大伴家の人々

  • 大伴安麻呂
    壬申の乱での功臣で、旅人・田主・宿奈麻呂・坂上郎女らの父。大宝・和銅期を通じて式部卿・兵部卿・大納言・太宰帥(兼)となり、和銅7年(714年)5月に死去した時は、大納言兼大将軍。正三位の地位にあった。佐保地内に邸宅をもち、「佐保大納言卿」と呼ばれた。
  • 巨勢郎女
    安麻呂の妻で、田主の母。旅人の母であるとも考えられている。安麻呂が巨勢郎女に求婚し、それに郎女が答えた歌が『 万葉集』巻第2-101~102に残されている。なお、大伴氏と巨勢氏は、壬申の乱においては敵対関係にあった。
  • 石川郎女(石川内命婦)
     安麻呂の妻で、坂上郎女・稲公の母。蘇我氏の高貴な血を引き、内命婦として宮廷に仕えた。安麻呂が、すでに巨勢郎女との間に旅人・田主・宿奈麻呂の3人の子供をもうけているにもかかわらず、石川郎女と結婚したのは、蘇我氏を継承する石川氏との姻戚関係を結びたいとの理由からだったとされる。
  • 旅人
    安麻呂の長男で、母は巨勢郎女と考えられている。家持・書持の父。征隼人持節使・大宰帥をへて従二位・大納言。太宰帥として筑紫在任中に、山上憶良らとともに筑紫歌壇を形成。安麻呂、旅人と続く「佐保大納言家」は、この時代、大伴氏のなかで最も有力な家柄だった。
  • 稲公(稲君)
    安麻呂と石川郎女の子で、旅人の庶弟、家持の叔父、坂上郎女の実弟。天平2年(730年)6月、旅人が大宰府で重病に陥った際に、遺言を伝えたいとして、京から稲公と甥の古麻呂を呼び寄せており、親しい関係が窺える。家持が24歳で内舎人の職にあったとき、天平13年(741年)12月に因幡国守として赴任している。
  • 田主
    安麻呂と巨勢郎女の子で、旅人の実弟、家持の叔父にあたる。『万葉集』には「容姿佳艶、風流秀絶、見る人聞く者、嘆せずといふことなし」と記され、その美男子ぶりが強調されている。しかし、兄弟の宿奈麻呂や稲公が五位以上の官職を伴って史書にしばしば登場するのに対し、田主は『続日本紀』にも登場しない。五位以上の官位に就く前に亡くなったか。
  • 古麻呂
    父親について複数の説があり確実なことは不明。長徳あるいは御行の子とする系図も存在するが、『 万葉集』には旅人の甥とする記述がある。旅人の弟には田主・宿奈麻呂・稲公がいるので、古麻呂はこのうち誰かの子であったことになる。天平勝宝期に左少弁・遣唐副使・左大弁の職をにない正四位下となる。唐から帰国するとき、鑑真を自らの船に載せて日本に招くことに成功した。のち橘奈良麻呂らによる藤原仲麻呂の排除計画に与し、捕縛されて命を落とした。
  • 坂上郎女
    安麻呂と石川郎女の子で、旅人の異母妹、家持の叔母にあたる。若い時に穂積皇子に召され、その没後は藤原不比等の子・麻呂の妻となるが、すぐに麻呂は離れる。後に、前妻の子もある大伴宿奈麻呂(異母兄)に嫁して、坂上大嬢と二嬢を生む。後に、長女は家持の妻となり、次女は大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)の妻となった。家持の少・青年期に大きな影響を与えた。
  • 書持
    旅人の子で、家持の弟。史書などには事績は見られず、『万葉集』に収められた歌のみでその生涯を知ることができる。天平18年(746年)に若くして亡くなった。
  • 池主
    出自は不明で、池主という名から、田主の子ではないかと見る説がある。家持と長く親交を結んだ役人として知られ、天平年間末期に越中掾を務め、天平18年(746年)6月に家持が越中守に任ぜられて以降、翌年にかけて作歌活動が『万葉集』に見られる。

【PR】

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。