本文へスキップ

巻第19(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第19-4171~4176

訓読

4171
常人(つねひと)も起きつつ聞くぞ霍公鳥(ほととぎす)この暁(あかとき)に来鳴く初声(はつこゑ)
4172
霍公鳥(ほととぎす)来鳴き響(とよ)めば草取らむ花橘(はなたちばな)を屋戸(やど)には植ゑずて
4173
妹(いも)を見ず越(こし)の国辺(くにへ)に年(とし)経(ふ)れば我(あ)が心どの和(な)ぐる日もなし
4174
春のうちの楽しき終(を)へは梅の花(はな)手折(たを)り招(を)きつつ遊ぶにあるべし
4175
霍公鳥(ほととぎす)今来鳴きそむ菖蒲(あやめぐさ)蘰(かづら)くまでに離(か)るる日あらめや
4176
我が門(かど)ゆ鳴き過ぎ渡る霍公鳥(ほととぎす)いやなつかしく聞けど飽き足(だ)らず

意味

〈4171〉
 世の人の誰も今夜は起き続けて聞くぞ、ホトトギスがこの夜明けに来て鳴く、その初声を。
〈4172〉
 ホトトギスが来て鳴き立てたら、私は草取りをしよう、花橘を家の庭に植えたりなどせずに。
〈4173〉
 妹(いもうと)のあなたを見ることもなく越の国辺で何年も経たので、わが心の穏やかでいられる日とてもない。
〈4174〉
 春のうちの一番の楽しみは、梅の花を手折って招き迎え、楽しく遊ぶことであろう。
〈4175〉
 ホトトギスは今来て鳴き始めた。菖蒲を蘰にする五月の節句まで、ここを離れる日があろうか、ありはしない。
〈4176〉
 我が家の門をかすめて鳴き過ぎてゆくホトトギスは、いよいよ懐かしくて、いくら聞いても飽き足りない。

鑑賞

 大伴家持の歌。4171・4172は、題詞に「二十四日は、立夏四月の節に応(あた)れり。これによりて二十三日の暮(ゆふへ)に、たちまちに霍公鳥の暁に喧かむ声を思ひて作れる歌」とあります。「二十四日」は3月24日のことで、普通だと4月に入る日が立夏であるのに、この年は3月24日が立夏になったのでこのように言っています。太陽暦の5月8日にあたります。4171の「常人」は、一般の人々。特別な風流人に対して、普通一般の人々。「来鳴く初声」の原文「来喧始音」で、キナケハツコヱと命令形に訓み、ホトトギスに対する呼びかけと解する説もあります。題詞に「喧かむ声を思ひて」とあるように、あくまで想像裏の歌ですが、本気になって待っている真摯な態度が窺える歌です。

 
4172の「草取らむ」は、初夏に有用な草を採集することをいうか、あるいは農事の草取りのことをいうか。「花橘を屋戸には植ゑずて」の「屋戸」は、家の敷地、庭先。花橘はホトトギスが好んで来て鳴く木としての言ですが、ここはそんな木も庭に植える必要がない、と言っているのでしょうか。窪田空穂は、「屋前へ花橘を植えて、それに止まらせて聞くようなことはせず、親しく田に立って、草取りの勤労をしながら聞こうというのである。霍公鳥を酷愛するところから、より多く直接に見たり聞いたりしようというので、酷愛を具象化した歌である」と言っています。

 
4173は、題詞に「京なる丹比家(たぢひけ)に贈れる歌」とあり、丹比は「多治比」とも書き、橘氏とともに皇族系の名家であり、家持の妹が居住していた、あるいは嫁いだ家とされます。従って、歌にある「妹」は、兄妹の関係にある妹を指しており、その妹に宛てた歌です。「越の国辺」は、越前・越中・越後の総称。「心ど」は、心のはたらき、しっかりした心。「和ぐる日」は、心が穏やかになる日。この妹との歌のやり取りは、4184、4197~4198、4213にも見られます。ただ、4184、4197~4198の左注には「留女の女郎」の名が明記されているのに対し、ここの歌と4213には「京の丹比家」とのみある相違があり、全く同一人物に扱ってよいかの疑問は残ります。

 
4174は、題詞に「筑紫の太宰の時の春苑梅歌に追和する」とある歌で、天平2年(730年)正月に、太宰帥大伴旅人の邸宅で催された梅花の宴で詠まれた歌に追和する歌です。巻第17-3901~3906にも、家持の弟、書持による連作があります。「楽しき終へは」の「終へ」は、頂上、極限の意。巻第5-815の結句「楽しき終へめ」を承けています。「招きつつ」の「招く」は、客として招く意。「遊ぶ」は、文雅の遊びをする意。左注に「二十七日興に依りて作れる」とあり、梅の花の時期ではない3月27日(太陽暦の5月11日)の作です。

 4175・4176は「霍公鳥を詠む」歌。
4175の「蘰く」は、蘰として頭につける意。菖蒲を邪気を払う草として使用するのは5月5日の行事。「離るる日あらめや」の「や」は反語で、離れる日があろうか、ありはしない。「も・の・は」の3つの助詞を用いずに詠んだ、という断り書きがあります。一種の知的遊戯の歌と見られます。4176の「我が門ゆ」の「ゆ」は、起点・経由点を示す副助詞。「も・の・は・て・に・を」の助詞を用いずに詠んだと、省く助詞の数を前歌の2倍にして、いっそう厳しい条件を課したとあります。この歌について窪田空穂は、「難題を詠みぬいたという感のあるものである。適当な話相手も、作歌の仲間もないところから、独り遊びとしてその心をやったものであろう。その意味では察しられるところがある。家持としては、棄て去るに忍びない歌であったろうと思われる」と述べています。
 

かづら(蘰)

 カヅラは、蔓(つる)性植物の総称の場合と、植物の蔓や緒に通した玉などを用いた髪飾りを指す場合とがある。髪飾りとしてのカヅラは、カミ(髪)+ツラ(蔓)の約と考えられ、そこから、一般に蔓草をいうようになったものであろう。同じ髪飾りでも、ウズやカザシが枝のまま髪に突き刺したのに対し、カヅラは蔓状の植物を髪に結んだり、巻きつけたり、輪状にして頭に冠したりして用いた。元来は、蔓性植物の強い生命力を身に移そうとする感染呪術に基づくと考えられている。

 『万葉集』には、蔓性植物の総称をいうカヅラに美称の「玉」が冠した「玉葛(たまかづら)」の例がしばしば見える。蔓が長く延びて絶えないことから、枕詞として「絶ゆることなく」や「いや遠長く」などを導くことが多い。

 一方、髪飾りの意のカヅラであるが、『万葉集』では様々な植物をカヅラにすることが詠まれている。なかでも、柳のカヅラを詠む例が圧倒的に多い。カヅラの動詞型カヅラクの例も見える。 

~『万葉語誌』から抜粋引用

【PR】

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。