| 訓読 |
4192
桃の花 紅色(くれなゐいろ)に にほひたる 面輪(おもわ)のうちに 青柳(あをやぎ)の 細き眉根(まよね)を 笑(ゑ)み曲がり 朝影(あさかげ)見つつ 娘子(をとめ)らが 手に取り持てる まそ鏡 二上山(ふたがみやま)に 木(こ)の暗(これ)の 茂き谷辺(たにへ)を 呼び響(とよ)め 朝飛び渡り 夕月夜(ゆふづくよ) かそけき野辺(のへ)に はろはろに 鳴く霍公鳥(ほととぎす) 立ち潜(く)くと 羽触(はぶ)れに散らす 藤波(ふぢなみ)の 花なつかしみ 引き攀(よ)ぢて 袖に扱入(こき)れつ 染(し)まば染(し)むとも
4193
霍公鳥(ほととぎす)鳴く羽触(はぶ)れにも散りにけり盛り過ぐらし藤波の花 [一云 散りぬべみ袖に扱入れつ藤波の花]
4194
霍公鳥(ほととぎす)鳴き渡りぬと告(つ)ぐれども我(わ)れ聞き継(つ)がず花は過ぎつつ
4195
我(わ)がここだ偲(しの)はく知らに霍公鳥(ほととぎす)いづへの山を鳴きか越ゆらむ
4196
月立ちし日より招(を)きつつうち偲(じの)ひ待てど来鳴かぬ霍公鳥(ほととぎす)かも
| 意味 |
〈4192〉
桃の花、その紅色に輝いている顔の中に、ひときわ目立つ青柳のような細い眉、その眉がゆがむほどに笑みこぼれ、朝の自分の姿を映して見ながら、娘子が手に持つ美しい鏡の蓋ではないが、その二上山の木々が茂る暗がりの谷間を、鳴き散らしながら朝飛び渡り、夕月夜にはか細い光の野辺の遙か遠くを鳴くホトトギス。木々をくぐり抜ける羽ばたきで散る藤の花が愛おしくて、小枝を引きちぎって袖にしごき入れた。花の色に染まるなら構わないと思って。
〈4193〉
ホトトギス、鳴きながら飛ぶ羽ばたきによっても散ってしまう、盛りが過ぎつつあるらしい、藤波の花は(今にも散りそうなので、袖にしごき入れた、藤の花を)。
〈4194〉
ホトトギスがここを鳴いて渡っていったと、人は言うけれど、私はその鳴き声を聞いていない。藤の花がどんどん散っていくというのに。
〈4195〉
私がこんなにひどく恋い慕っているのを知らないで、ホトトギスは今ごろどこらあたりの山を鳴いて越えているのだろうか。
〈4196〉
月が代わった日から、早く来てほしいと待ちに待っているけれど、一向にやって来て鳴いてくれない、ホトトギスは。
| 鑑賞 |
大伴家持の歌。4192・4193は「霍公鳥併せて藤の花を詠む」歌。天平勝宝2年(750年)4月9日作。4192の「にほふ」は、美しく照り映える。「面輪」は、顔つき。「朝影」は、ここでは鏡に映す朝の顔の意。「まそ鏡」は、きれいに澄んではっきり映る鏡。その蓋の意で「二(ふた))」にかかり、冒頭からここまでの11句が「二上山」を導く序詞。「二上山」は、越中国府がその麓にあった富山県高岡市の山。「木の暗」は、木が茂って暗いこと。「谷辺」は、谷のほとり。「夕月夜」は、夕方に出ている月。「かそけし」は、消え入るようである。「はろはろ」は、遥かに遠いさま。「立ち潜く」は、間をくぐる。「羽触れ」は、羽ばたいた羽が触れること。「藤波」は、藤の花房を波に見立てた歌語。「引き攀づ」は、つかんで引き寄せる。「扱入れつ」は、しごきとって入れる。
4193の「鳴く羽触れにも」は、ホトトギスが鳴く時に羽をふるわせる、そのかすかな動きに触れるだけでも。「散りにけり」は、散ってしまったなあ、という詠嘆。「過ぐらし」の「らし」は、確かな根拠に基づく推定。
長歌の長い序について、「取ってつけたような感じで、主想部との連絡に味がない」との批判があるようですが、国文学者の青木生子は次のように述べています。「前半の序が長く、こまやかな美女の容顔の描写になっているのは、第19巻頭部分を意識するとともに、大嬢や留女をも心においているからか。主想部を起こす『二上山』からの描出も、都人に越の印象を伝えようとの気持ちがあるように思える」。
4194~4196は、題詞に「さらに霍公鳥の喧(な)くこと晩(おそ)きを怨むる歌三首」とある歌。「さらに」とあるのは、4192・4193に対し、重ねて「霍公鳥」の歌を載せていることを言っています。4194の「霍公鳥鳴き渡りぬと」の「鳴き渡る」は、ホトトギスが鳴きながら空を飛んでいくこと。ここでは、待ちに待ったホトトギスが(今年初めて)鳴いて通り過ぎていった、という意味合いが含まれます。「告ぐれども」は、(周囲の人が私に)「いまホトトギスが鳴いていきましたよ」と教えてくれるのだけれども。「我れ聞き継がず」は、人が聞いたのを、自分はそのあと引き継いで聞かない、の意。「花は過ぎつつ」の「花」は、前歌(4193)の「藤波の花」のこと。「過ぎつつ」は、散りつつあり、の意。
4195の「ここだ」は、これほどまでに甚だしく。「偲はく知らに」の「偲はく」は「偲ふ」のク語法で名詞形で、慕うこと。「知らに」の「に」は、打消の助動詞「ぬ」の連用形で、・・・ないので、という理由を表します。「いづへの山を」の「いづへ」は、どの方向、どこのあたりという意味。どこの山あたりを、という問いかけ。「鳴きか越ゆらむ」は、鳴きながら(山を)越えているのだろうか。
4196の「月立ちし日」は、ここは4月に入ったその日、朔日。普通は4月に入る日が立夏で、ホトトギスは立夏とともに来るという思いに拠っています。「うち偲ひ待てど」の「うち」は、語調を整える接頭語。心の中でずっと恋い慕いながら待っているのだけれども。「霍公鳥かも」は、ホトトギスであることよ。「かも」は強い詠嘆や、やりきれない疑問のニュアンスを含みます。
4194~4196の歌について、窪田空穂は次のように述べています。「こうした実感を率直に詠んだ歌は、対象が人事であれば感の深いものとなるが、このように自然を対象とした物では、無味な、平凡なものとなる。しかし以上三首の歌は、家持にあっては、霍公鳥は人間と異ならない感のする物となっていたので、彼自身はこれで足りるものとしていたのであろう。個人性の表現がただちに歌となるものではないという、微妙な境を示している歌といえる。これは作者が家持であるがゆえに問題となるのである」。

『万葉集』の主な注釈書
(全歌掲載、単独著者による。成立の古い順)
『万葉拾穂抄』 ~北村季吟
『万葉代匠紀』 ~契沖
『万葉集略解』 ~橘 千蔭
『万葉集古義』 ~鹿持雅澄
『万葉集新考』 ~井上通泰
『万葉集全釈』 ~鴻巣盛広
『万葉集評釈』 ~窪田空穂
『万葉集全注釈』 ~武田祐吉
『評釈万葉集』 ~佐佐木信綱
『万葉集私注』 ~土屋文明
『万葉集注釈』 ~沢濱久孝
『万葉集釈注』 ~伊藤博
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