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巻第19(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第19-4235

訓読

天雲(あまくも)をほろに踏みあだし鳴る神も今日(けふ)にまさりて畏(かしこ)けめやも

意味

天雲をばらばらに蹴散らして鳴り響く雷神の恐ろしさも、今日の天皇の恐れ多さにかないましょうか、かないはしません。

鑑賞

 題詞に「太政大臣藤原家の県犬養命婦(あがたのいぬかいのみょうぶ)が天皇に奉った」とある歌。「太政大臣藤原家」は、藤原不比等の尊称、「県犬養命婦」は、県犬養東人の娘で、名は三千代。はじめ美努王に嫁して葛城王(橘諸兄)、佐為王(橘佐為)を生んだ後、離婚し、不比等に嫁して安宿媛(あすかべひめ:後の光明皇后)を生んだ女性です。「命婦」は、後宮の女官のことで、五位以上の位をもつ婦人を内命婦、五位以上の官人の妻を外命婦といい、三千代は内命婦でした。自らも出仕して不比等の支えとなり、元明・元正・聖武の3代の天皇に仕え、ここの天皇は聖武天皇ではないかとされます。

 巻第8-1658のところでご紹介した
光明皇后による「藤三娘」という自身の署名は、藤原氏の三女という意味、あるいは母・三千代の名を入れたともいわれます。三千代は元は中流貴族の出身でしたが、不比等と結婚した後は、女官として宮廷に大きな影響力を持つようになりました。天武~聖武天皇の歴朝に仕えた功により、和銅元年 (708) 年に、元明天皇から「橘」 の姓を賜わっています。

 「ほろに」は、ばらばらに。「踏みあだし」は、踏み荒らして、蹴散らして。雷の鳴る威圧感を視覚的に言ったものとされます。「鳴る神」は、雷のこと。「畏けめやも」の「め」は推量、「やも」は反語。天皇が何かのお計らいをなされた時、側近していた命婦として天皇の威光を褒め讃えた歌ですが、国文学者の
窪田空穂は「調べが重厚で、物言いの直線的なのに支えられて、調べがただちに感をあらわしているものである。女性の歌としては、珍しいまでに男性的なものである」と評しています。

 この歌は、天平勝宝3年(751年)正月に越中で催された宴席において、
久米広縄が伝誦したもので、上司の大伴家持が書き留めて、『万葉集』に載ることになりました。その折にちょうど雷鳴があったのかもしれず、日本海側では真冬の雪の中での雷鳴や落雷は日常茶飯事だといい、これを「雪おこし」と呼ぶそうです。

あめ・あま(天・雨・海人)

 アメには、「天」「雨」の字があてられる。両者は、母音交替形がアメとなることでも共通しており、語源を一つにする語であることが分かる。「天」は、神話的世界観において神々の住む天上世界をいうのが原義。後に、自然的存在としての天空をも意味するようになるが、その場合にも背後に天上世界の存在が意識されている。天空を意味する「天(あめ)」は、「地(つち:大地)」の対として「天地(あめつち)」の形で用いられることが多い。一方、神話的世界観においては、「天(あま)つ神(天上世界に属する神)」に対して、「国(くに)つ神(地上世界に属する神)」の呼称が見えており、「天」と「国」が対の関係に置かれている。

 「天(あめ)」は、「天(あま)」「天(あま)の」「天(あま)つ」「天(あめ)の」などの形で様々な語に冠し、神聖な天上界のものであることを表す複合語を作る。例えば、「天(あま)の原」は天空の広がりをいう語で、『万葉集』では多く「天の原振り放(さ)け見れば」と歌われる。「振り放け見る」は遠く振り仰いで見やる意で、本来、霊的な対象と交流し招迎するための呪術であった。よって、「天の原」の語にも、「高天原」の神聖さへの讃美の意識があることが分かる。

 また、「天(あめ)の下」は、都を中心として天皇が統治する秩序ある世界のことで、「天」の秩序を負い持って存在するものと考えられた。これに対して「天離(あまざか)る鄙(ひな)」という慣用的な言い回しがある。「鄙」は都を遠く離れた田舎をいう語であり、都を中心とする「天の下」に秩序を及ぼす「天(あめ)」が、「鄙」の地には存在し得ないものと考えられたために生まれた言い回しとされる。

 「天(あめ)」の強い呪力を宿して「天」から降るものが、「雨」である。「雨」に「天」の意識があることは、「ひさかたの天(あめ)の時雨(しぐれ)」(巻第1-82)という表現にも表れている。「雨」には「天」の強い呪力が宿るため、濡れることは禁忌とされた。よって、男女の恋愛生活において、「雨」の降る夜に男が女のもとを訪れることは基本的に避けられた。

 折口信夫によれば、古代日本において、「天」と「海」は同一視されていたという。漁撈民をいう「海人(あま)」や「海部(あまべ)」のアマと、「天」の母音交替形である「天(あま)」が同じアマの音を持つことが、その証左とされる。古代の神話的世界観では「天」と「海」が共に「国」の対とされることからも、「天」と「海」との共通性が見て取れる。古代の世界観の論理によると、「海」は遠い沖の果てで「天」の壁のそびえ立つ場所と接している。ここに、「天」と「海」とが同一視される理由があるらしい。

~『万葉語誌』から抜粋引用

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