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巻第19(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第19-4240~4244

訓読

4240
大船(おほぶね)に楫(まかぢ)しじ貫(ぬ)きこの我子(あこ)を唐国(からくに)へ遣(や)る斎(いは)へ神たち
4241
春日野(かすがの)に斎(いつ)く三諸(みもろ)の梅の花 栄(さ)きてあり待て帰り来るまで
4242
天雲(あまくも)の行き帰りなむものゆゑに思ひぞ我(あ)がする別れ悲しみ
4243
住吉(すみのえ)に斎(いつ)く祝(はふり)が神言(かむごと)と行くとも来(く)とも船は早けむ
4244
あらたまの年の緒(を)長く我(あ)が思へる子らに恋ふべき月近づきぬ

意味

〈4240〉
 大船に櫂(かい)をたくさん取りつけて、この我が子を唐の国へ遣(つか)わします。どうか守ってやってください、神々よ。
〈4241〉
 春日野にお祀りしている神の御座所の梅の花よ、このまま咲き栄えて待っていてくれ、私が帰って来る日まで。
〈4242〉
 天雲のように、行ってすぐに帰ってくるものであろうに、私は物思いをすることだ、別れを悲しんで。
〈4243〉
 住吉神社の神官が神のお告げだとして言うことには、行きも帰りも船はすいすいと進むでしょう。
〈4244〉
 年久しく私がずっといとおしく思ってきた人と離れ、恋しくてならなくなるだろう、出発の日が近づいてきました。

鑑賞

 4240は、左注に「春日にして神を祭る日、藤原太后(光明皇后)の作らす歌一首。即ち入唐大使藤原朝臣清河に賜ふ 参議従四位下遣唐使」とある歌。「春日にして神を祭る日」というのは、奈良の春日の地で、遣唐使の平安を祈って神を祭った日。この後の神護景雲2年(768年)に創建された春日神社は、藤原氏の氏神を祭っています。遣唐大使に任命された藤原朝臣清河(ふじわらのあそんきよかわ)は房前の子で、光明皇后の甥にあたりますが、国母の立場もしくは親愛の情から「我子」と呼んでいます。房前は天平9年(737年)の悪疫流行の時に亡くなっているので、親代わりのような気持ちもあったのでしょう。

 
4241は、遣唐大使となった清河の歌。「春日野」は、奈良の春日山、御蓋山のふもとに広がる野で、現在の奈良公園を含む地域。「斎く」は、心身を清めて神に仕えること。「三諸」は、神が降臨して宿るところ、神を祀る神座や神社。「梅の花」は、ここは叔母の光明皇后の譬えであり、皇后を称える気持ちを詠んでいるとする説もあります。つまり、「春日野にお祀りしている神の御座所の梅の花、その梅の花のような皇后様、どうかご無事でいてください、私が帰って来る日まで」。

 4242~4244は、大納言藤原家で入唐使たちの送別の宴を開いた日の歌。「大納言藤原家」は、ここは天平勝宝元年(749年)に大納言になった
藤原仲麻呂のこと。大納言は太政官で主として政策審議にあたる官。正三位相当官。4242は、宴の主人の仲麻呂の歌。4243は、民部少輔(みんぶのしょうふ)多治比真人土作(たじひのまひとはにつくり)の歌。民部少輔は、土地、戸口、課役、山川、道橋などの民政を司る民部省の次官。4243は、遣唐大使に任命された藤原清河(ふじわらのきよかわ)の歌。清河は仲麻呂の従兄弟にあたります。

 
4242の「天雲の」は、天雲が空を自由に往来するところから「行き帰り」にかかる枕詞。「ものゆゑに」は、ものなのにの意で、逆接。「思ひぞ我がする」は、物思いを私はするの意。「する」は「す」の連体形で「ぞ」の結び。4243の「住吉」は、大阪市住吉区。ここでは海の守護神である住吉大社。「斎く」は、神に仕える、神を祭る。「祝」は神職、神に仕える人。「神言と」は、神のお言葉として。4244の「あらたまの」は「年」の枕詞。「年の緒」は、年の長いことを緒に譬えた語。

 清河は、天平勝宝2年(750年)9月に遣唐大使となり、同4年3月拝朝の後に入唐、阿倍仲麻呂とともに唐朝に仕えました。その後、帰国の途上に逆風に遭い漂着、同船の者は土人に殺されたものの、清河は助かって唐に留まり、結局、帰国することなく、宝亀9年(778年)ころ唐国で没しました。

 ところで、
清河はなぜ日本に帰って来なかったのでしょう。遭難して長安の都に戻った清河のことは朝廷首脳も心を痛め、宝字3年(759年)には清河を迎えるための迎入唐使を派遣しています。しかも唐の朝廷は日本に帰る彼らのために送使も与えたのです。しかし、清河は帰りませんでした。それどころか、迎使のなかに清河のもとにとどまる者さえ出てきます。さらに当時の唐は、安史の乱のさなかでもありました。清河が故国に帰らなかった理由には、一度苦しんだ帰航への不安とためらいがあったのかもしれません。そして、この時の清河はすでに55歳であり、いつの時点か唐の女性と結婚し、娘もいましたから、唐にも、充実と安らぎを覚える身の置き所があったのでしょう。さらに、阿倍仲麻呂と同様に、唐人との交流もあったはずです。清河が亡くなった時、唐朝は潞州(ろしゅう:山西省南東部)の大提督の称号を贈っています。
 


藤原清河の娘

 清河と唐の女性との間に生まれた娘の喜娘(きじょう)が、父の亡くなった後の宝亀9年(778年)に、日本に渡って来たことが知られています。しかし、彼女の渡航も大変な困難なものでした。一行は4月に長安を出発、9~11月にかけて蘇州から四つの船が船出し、第二、三、四船は何とか九州各地に漂着したものの、喜娘の乗った第一船は6日目の夜ににわかな強風に遭います。船棚が破られ、船内に水が満ちて、人も物も漂う状態となり、副使や唐使ら60人以上が波にのまれて姿を消しました。3日目後には帆柱が倒れて船体が両断されたため、喜娘ら41人は舳の狭い空間にしがみついたまま、衣服も脱ぎ、何も口にせず6日間も漂流し、ようやく13日目に天草に流れ着きました。そうした苦難の末にたどり着いた喜娘でしたが、初めて目にした父の故国は、彼女の目にどのように映ったことでしょう。その後、喜娘がどう生涯を過ごしたかは分かっていません。

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藤原仲麻呂

 藤原仲麻呂は武智麻呂(むちまろ)の子で、豊成(とよなり)の弟、清河のいとこ。叔母にあたる光明皇后の信任厚く、天平勝宝元年(749年)に大納言、紫微令(しびれい:光明皇太后の家政機関)を兼ね、しだいに孝謙天皇の寵を得て政権を拡大し、恵美押勝(えみのおしかつ)と改名し、正一位、大師(太政大臣)を極めました。しかし、新たに孝謙天皇の寵を得て台頭した僧の道鏡の勢力に押されたため謀反を図り、天平宝字8年(764年)滅ぼされました。享年59歳。 

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。