| 訓読 |
4248
あらたまの年の緒(を)長く相(あひ)見てしその心引(こころび)き忘らえめやも
4249
石瀬野(いはせの)に秋萩(あきはぎ)しのぎ馬(うま)並(な)めて初鷹猟(はつとがり)だにせずや別れむ
4250
しなざかる越(こし)に五年(いつとせ)住み住みて立ち別れまく惜(を)しき宵(よひ)かも
4251
玉桙(たまほこ)の道に出で立ち行く我(わ)れは君が事跡(ことと)を負(お)ひてし行かむ
| 意味 |
〈4248〉
長い年月の間、親しくおつきあいいただき、心を寄せて頂いたことは、忘れようにもを忘れることができません。
〈4249〉
石瀬野で、秋萩を押し分けて、馬を並べ、今年初めての鷹狩りさえしていないのに、お別れしなくてはならないとは。
〈4250〉
五年もの間、越の国に住み続け、別れて旅立つことが、名残惜しくてたまらない今宵です。
〈4251〉
都に出立する私は、あなたがなされた功績を、しっかり背負って行きましょう。
| 鑑賞 |
天平勝宝3年(751年)7月、越中国庁にあった大伴家持のもとに、いよいよ待ちに待った朗報が届き、17日(太陽暦の8月16日)をもって、少納言に遷任されました。少納言は、太政官では太政大臣・左大臣・右大臣・大納言に次ぐ要職であり、定員は3名。従五位下に相当する官職ではあっても、侍従を兼ね、大事を天皇に奏上するのは大・中納言ですが、小事は少納言が扱って奏上しました。また、太政官印の押捺や天皇御璽(ぎょじ:天皇の公印)・駅鈴などの授受に関わったので、実務上は重要な職であり、政権中枢に位置するという点では、越中国守に比べれば明らかな栄転でした。
4248・4249の歌は、いよいよ越中を出発する日が近づいた8月4日、家持が、悲別の歌を作り、掾(じょう)久米朝臣広縄の邸宅に贈って残した歌です。広縄はこの年の朝集使(ちょうしゅうし)として先に上京していて留守でした。「朝集使」は1年間の政情を記した報告書(朝集帳)を太政官に提出する使者のこと。歌の前には、広縄に宛てた次の旨の伝言が付されています。「すでに6年の任期が満ち、はからずも転任の時がまいりました。ここに旧知の友とお別れする悲しみは、心中いっぱいになり、涙をぬぐう袖は乾かしようがありません。そこで悲しみの歌2首を作り、決してお忘れしないとの気持ちを残しておきます。その歌は次のとおりです」(6年とあるのは、足かけ年6年のこと)。
4248の「あらたまの」は「年」の枕詞。「あらたま」は、宝石・貴石の原石を指すものと見られますが、掛かり方は未詳。「年の緒」は、年月が長いのを緒にたとえた語。「相見てし」は、お付き合いいただいた。「心引き」は、心を引くこと、ご芳情。「忘らえめやも」は、忘れられようか。「え」は自発の助動詞「ゆ」の未然形。「や」は反語。この歌について窪田空穂は、「何人かの下僚の中で、家持は広繩が最も親しかったので、その留守中に国府を去ることに心残りを感じて、留守宅へなりとも心を遺しておこうとしたのである。『その心引』という語は、歌としては他に例のないものである。いう者もいわれる者も、感の深い語であったろうと思われる」と述べています。
4249の「石瀬野」は、高岡市石瀬付近または富山市東岩瀬町付近とされ、格好の狩場だったといいます。「しのぎ」は、押し伏せ。「初鷹猟」は、その年に行う初めての鷹狩りのこと。鷹狩りは晩秋から冬にかけて行われ、秋には小鷹狩といい、小鷹を使って小鳥を獲らせ、冬には大鷹狩といい、大鷹を使って大鳥を獲らせました。「だに」は、~さえも。広縄は、天平19年(747年)以来の部下であり歌友であり、再び共に鷹狩のできないのを残念がっています。窪田空穂は、「親しい間の物言いは、語が淡くて心の深いものである。この歌も、一緒にいる中の最も楽しかったことを思い出し、それの再びできない残念さをいっているもので、情味の深いものである」と述べています。
この時、家持は同時に大帳使に任ぜられ、8月5日に都へ向けて出発することになり、前日の4日に、介(すけ:次官)の内蔵伊美吉縄麻呂(くらのいみきなわまろ)の邸宅で送別の宴が開かれました。そのときに家持が作った歌が4250です。「大帳使」は、諸国の戸籍台帳を太政官に提出する使い。「しなざかる」は、幾重もの山坂を隔てた意。家持の造語で「越」の枕詞。「五年」は、満5年。「立ち別れまく」は「立ち別れむ」のク語法。この歌からは、かつて大宰府にあった山上憶良が、鄙に五年住まって都の手ぶりも忘れたと詠んだ歌(巻第8-880)が思い出されます。
5日の暁方(午前4時ごろ)、家持が都へ向けて出発し、国庁の次官以下の役人たち全員が射水郡のはずれまで見送ってくれました。そのとき、射水郡の大領(だいりょう:郡を統括する長官)の郡司安努君広島(あののきみひろしま)が、林の中にあらかじめ餞宴の用意をしており、内蔵伊美吉縄麻呂(くらのいみきつなまろ)が盃を捧げて歌を詠んだのに家持が応えた歌が4251です。当時は、親しい人が旅する時には国境まで同行し、そこで道中の無事を祈って酒杯を交わす習いでした。「玉桙の」は「道」の枕詞。道の曲がり角や辻などに魔除けのまじないとして木や石の棒柱が立てられていたことによります。「事跡」は、昇任や転任のもととなる成果、業績。「負ひてし」の「し」は、強意の副助詞。下2句は、今までの部下たちの労をねぎらい、彼らの心に染みる温かい言葉となっています。

越中時代の大伴家持
天平18年(746年)
7月 国守として越中に赴任
8月 国守の館で歓迎の宴
9月 弟・書持の訃報に接し哀傷歌を作る
12月 この頃から病に臥す
天平19年(747年)
2月 越中掾の大伴池主と歌の贈答
3月 月半ばまでに回復か
3月 妻への恋情歌を作る
4月 3~4月にかけて「越中三賦」を作る
5月 このころ税帳使として入京
5月以降、池主が越前国の掾に転任
8月 このころ越中に戻る
8月 このころ飼っていた自慢の鷹が逃げる
天平20年(748年)
2月 翌月にかけて出挙のため越中国内を巡行
3月 橘諸兄の使者として田辺福麻呂が来訪
4月? 入京する僧・清見を送別する宴
10月 このころ掾の久米広縄が朝集使として入京
天平勝宝1年(749年)
3月 越前の池主と書簡を贈答
4月 従五位上に昇叙される
5月 東大寺占墾地使の僧・平栄が来訪
5月 「陸奥国より黄金出せる詔書を賀す歌」を作る
6月 干ばつが続き、雨を祈る歌と、雨が降って喜ぶ歌を作る
7月 このころ大帳使として入京
冬に越中に戻るが、この時、妻の大嬢を越中に伴ったとみられる
11月 越前の池主と書簡を贈答
天平勝宝2年(750年)
1月 国庁で諸郡司らを饗応する宴
3月 「春苑桃李の歌」を作る
3月 出挙のため古江村に出張
3月 妻の大嬢が母の坂上郎女に贈る歌を代作
4月 布勢の湖を遊覧
6月 京の坂上郎女が越中の大嬢に歌を贈る
10月 河辺東人が来訪
12月「雪日作歌」を作る
天平勝宝3年(751年)
2月 正税帳使として入京する掾の久米広縄を送別する宴
7月 少納言に任じられる
8月 帰京のため越中を離れる。途中、越前の池主宅に寄り、京から帰還途上の広縄に会う
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