本文へスキップ

巻第19(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第19-4256

訓読

4256
いにしへに君が三代(みよ)経て仕(つか)へけり我(わ)が大主(おほぬし)は七代(ななよ)申(まを)さね

意味

〈4256〉
 昔、三代にわたってお仕えなさった大臣がありました。我らが大主のあなた様は、七代にまでわたって大臣として政務をお執りください。

鑑賞

 天平勝宝3年(751年)8月5日、大伴家持が、左大臣橘卿橘諸兄)を寿(ほ)くためにあらかじめ作った歌。家持は、自分が少納言に遷任されたのは諸兄の推輓によるものだろうと、諸兄への感謝の気持ちでいっぱいだったことでしょう。思えば、29歳の若さで越中守に就任したのも諸兄のお蔭だったはず。都に着いたら、何を置いてもまずは諸兄の邸に挨拶に伺おうと、そして諸兄の長寿を寿ぐ歌を贈ろうと強く思っていたと見えます。

 「君が三代経て」は、天皇の3代にわたって。「仕へけり」とある仕えたその人物は、
武内宿禰(たけのうちのすくね)、諸兄の母の県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)、あるいは西漢の名臣霍公のことを言っているのではないかとの説があります。「けり」は、伝承を通じて知っている意を表します。「我が大主」は、諸兄に対する強い忠誠心をこめてこう言ったもの。「申さね」の「申す」は、政務について奏上すること、「ね」は、願望。

 家持は、これまでも、またこの後も橘諸兄を讃える歌を詠んでいますが、この歌は「いにしへ」の廷臣との対比によって、現在の諸兄を寿くという内容であり、他に類例のない表現になっています。「いにしへに君が三代経て仕へけり」という本歌の独自性を支えるその理想的廷臣とは、やはり伝説の忠臣・
武内宿禰を指しているのではありますまいか。長寿の人として名高い武内宿禰は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の父景行天皇から、成務・仲哀・神功皇后・応神・仁徳天皇に至る6代に仕えて活躍したという人ですが、『日本書紀』の年数に合せると300歳ということになるため、史実としては信じ難いところです。一方、仲哀・応神・仁徳の3代の天皇に仕えたとするものもあり、家持が言っているのはそれと見られます。

 ただ、懐かしい奈良の都に帰り着いた家持でしたが、巻第19を見る限りにおいては、彼の作歌は天平勝宝3年から4年にかけて急激に減少しています。しかも、公的な立場の人々の公的行事や宴席の歌や、おざなりな付き合いの歌が大半となっています。さらに不可解なのは、家持が帰京後半年ほどして、国家をあげて盛大に行われたはずの東大寺大仏の開眼供養会には全く触れていないことです。越中に在任中、陸奥で黄金が産出したことを祝う長歌を詠んだ家持にとっては、当然に感慨深い出来事であったはずであり、いかにも不自然だといえます。さらにこの時期の半年間、何の歌も記録しておらず、いったいどういう状況にあったのか勘ぐられるところです。

家持の沈黙

(『孤愁の人 大伴家持』小野寛著/新典社から引用)

 万葉集にこの大仏開眼会に関する歌が一首もない。家持自身の歌はもとより、他の歌を記すことすらしていない。これはどうしたことだろう。家持は帰京後、にわかに歌の記録が乏しいのである。帰京の年、越中でも歌が少なくなっていたが、帰京の途次、都での自らの晴れの姿を空想して長歌を詠んだほど、期待に胸をふくらませての帰京だったはずである。それにもかかわらず、帰京後一年の家持の歌は、その年10月22日の紀飯麻呂家での宴歌一首(巻19-4259)と、制作年月不明の「詔に応へむために儲けて作る」長歌一首、反歌一首(同4266・4267)とが記録されているだけである。このあたりに大仏開眼にかかわる歌がなければならない。

 この帰京後の沈滞が大仏開眼会の盛儀によっても目覚めなかったのか、いやむしろその大仏建立のことを含めた沈滞であったのか。

 10月22日の紀飯麻呂家での宴の歌は家持の一首の他にも二首記録されているのだが、それは恭仁京の時の歌を伝誦したものと、飛鳥古京の時代の歌を伝誦したもので、この宴が懐古趣味のものだったと思われる。家持の応詔の予作歌は、越中からの帰路のものもこれも、どちらも天皇の肆宴に列した時を予想しての作で、うたげのその席を讃美する歌である。その「天皇」が孝謙女帝であるとすれば、両歌の長歌の結びに「酒みづき、栄ゆる今日の あやに貴さ」(巻19-4254)「紐解き放けて 千年寿き 寿きとよもし ゑらゑらに 仕へ奉るを 見るが貴さ」(同4266)と歌って期待した君臣和楽の宴は夢でしかなかった。家持の越中在任中に聖武天皇から孝謙女帝への譲位が行われたのであってみれば、家持の聖武天皇への思い入れはあとを引いてしまうだろう。それが沈滞の原因ではなかったか。

 その聖武上皇の命をかけた大仏建立が、いま完成を迎え、大仏開眼供養が営まれるとすれば、家持も歌心を昂揚させていいはずである。それなのに、万葉集に一首の歌もない。

 大仏開眼会の日の夕べ、孝謙天皇は大納言兼紫微令(しびれい)藤原仲麻呂の邸田村第(たむらのだい)に招かれ、ここに泊まった。孝謙女帝と仲麻呂との仲はすでに世間をはばからぬものになっていた。家持の沈滞は、藤原仲麻呂の専横にこそあったのである。それが歌人家持を沈黙させていた。

【PR】

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。