| 訓読 |
4257
手束弓(たつかゆみ)手に取り持ちて朝狩(あさがり)に君は立たしぬ棚倉(たなくら)の野に
4258
明日香川(あすかがは)川門(かはと)を清み後(おく)れ居て恋ふれば都いや遠そきぬ
4259
十月(かみなづき)時雨(しぐれ)の常(つね)か我(わ)が背子が宿(やど)の黄葉(もみちば)散りぬべく見ゆ
| 意味 |
〈4257〉
握りの太い弓を手に取って、朝狩に君はお立ちになった、ここ棚倉の野へ。
〈4258〉
明日香川の川門が清らかなので、古京に残って恋い慕っているうちに、都はさらに遠くに行ってしまった。
〈4259〉
十月に降るしぐれの季節の常なのでしょう。あなたの家の庭の黄葉が散ってしまいそうに見えます。
| 鑑賞 |
大伴家持が、少納言として京に戻って2か月余りが過ぎたころの天平勝宝3年(751年)10月22日(太陽暦の11月18日)、左大弁(さだいべん)紀飯麻呂朝臣(きのいいまろあそみ)の家で宴を開いたときの歌3首。左大弁は左弁官の長官。左弁官は、少納言と同じく太政官に属し、中務・式部・治部・民部省を管掌する部署であり、紀飯麻呂は、家持にとって同僚となる人です。4257は、同席した治部卿の船王(ふねのおおきみ)が伝誦した久邇の都の時の歌。治部卿は治部省の長官。4258は、左中弁の中臣清麻呂(なかとみのきよまろ)が伝誦した古京の時の歌。左中弁は、左弁官の次官。4259は、家持がその時に梨(なし)の黄葉を見て詠んだ歌。
4257の「手束弓」は、握りの太い弓。「朝狩」は、早朝にする狩り。「君は立たしぬ」の「君」が誰であるかは不明。「立たしぬ」は、敬語。「棚倉の野」は、京都府相楽郡山城町付近の野で、恭仁京から程近い地。4258の「明日香川」は、奈良県明日香村の中心部を西北に流れる川。「川門」は、川の流れの狭くなった所。「後れ居て」は、人々が新都に移った後も旧都に残っていて。「いや遠そきぬ」は、都が明日香京から藤原京、さらに平城京に遷り、明日香の地からいっそう遠くなった意か。4259の「時雨の常か」は「時雨の降れば」と訓む本もあり、「散りぬべく見ゆ」は「散るべく見ゆる」と訓む本もあります。「やど」は、家の敷地、庭先。
家持の歌は、前2首が古京に関する伝誦歌であるのに対し、主人の飯麻呂の庭のもみじを見て詠んだ作です。しかし、この歌に対する評価は不芳で、梨の黄葉だというのだから、せめてナシの語を入れるべきであった、とか、梨の紅葉が表せなかったのは力量不足、とか、あるいは何ら感銘のない報告的な歌で、凡作というより外ない、はたまた、歌人の川口常孝は「紀飯麻呂の宴の歌で、神経のよく行きとどいたはずの家持が、主人の家の梨の黄葉を”散りそうに見える”と歌っている。これでは挨拶にも何もなりはしない。宴は共食共栄が本旨である。そんなことは百も承知している家持が、あろうことか、事物の衰微を口にのぼしている」と酷評し、「ここには家持自身の精神の投影が、期せずして顕現している」と言っています。すなわち、家持が帰京早々に感じ取った中央政界の空気は、越中で思い描いていた期待に反するもので、家持は自らの心の場を失おうとしていたのではないかというのです。

家持の沈黙
(『孤愁の人 大伴家持』小野寛著/新典社から引用)
万葉集にこの大仏開眼会に関する歌が一首もない。家持自身の歌はもとより、他の歌を記すことすらしていない。これはどうしたことだろう。家持は帰京後、にわかに歌の記録が乏しいのである。帰京の年、越中でも歌が少なくなっていたが、帰京の途次、都での自らの晴れの姿を空想して長歌を詠んだほど、期待に胸をふくらませての帰京だったはずである。それにもかかわらず、帰京後一年の家持の歌は、その年10月22日の紀飯麻呂家での宴歌一首(巻19-4259)と、制作年月不明の「詔に応へむために儲けて作る」長歌一首、反歌一首(同4266・4267)とが記録されているだけである。このあたりに大仏開眼にかかわる歌がなければならない。
この帰京後の沈滞が大仏開眼会の盛儀によっても目覚めなかったのか、いやむしろその大仏建立のことを含めた沈滞であったのか。
10月22日の紀飯麻呂家での宴の歌は家持の一首の他にも二首記録されているのだが、それは恭仁京の時の歌を伝誦したものと、飛鳥古京の時代の歌を伝誦したもので、この宴が懐古趣味のものだったと思われる。家持の応詔の予作歌は、越中からの帰路のものもこれも、どちらも天皇の肆宴に列した時を予想しての作で、うたげのその席を讃美する歌である。その「天皇」が孝謙女帝であるとすれば、両歌の長歌の結びに「酒みづき、栄ゆる今日の あやに貴さ」(巻19-4254)「紐解き放けて 千年寿き 寿きとよもし ゑらゑらに 仕へ奉るを 見るが貴さ」(同4266)と歌って期待した君臣和楽の宴は夢でしかなかった。家持の越中在任中に聖武天皇から孝謙女帝への譲位が行われたのであってみれば、家持の聖武天皇への思い入れはあとを引いてしまうだろう。それが沈滞の原因ではなかったか。
その聖武上皇の命をかけた大仏建立が、いま完成を迎え、大仏開眼供養が営まれるとすれば、家持も歌心を昂揚させていいはずである。それなのに、万葉集に一首の歌もない。
大仏開眼会の日の夕べ、孝謙天皇は大納言兼紫微令(しびれい)藤原仲麻呂の邸田村第(たむらのだい)に招かれ、ここに泊まった。孝謙女帝と仲麻呂との仲はすでに世間をはばからぬものになっていた。家持の沈滞は、藤原仲麻呂の専横にこそあったのである。それが歌人家持を沈黙させていた。
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中臣清麻呂
奈良中・後期の貴族で、祭祀により古代の政界に大きな位置を占めた中臣氏の流れをくむ人。天平15年(743年)従五位下。尾張守、紫微中台大忠、参議、左大弁、神祇伯、中・大納言、右大臣などを歴任、奈良政治に重きをなし、神護景雲3年(769年)に称徳天皇から姓大中臣を勅許される。従三位に叙せられるに際しては、「その累神祇官を任じ清慎自守 清万呂の心名の如し」と評された。宝亀2年(771年)の大嘗祭に神寿詞を奏上し、また天皇を私邸に迎えたことも数回に及んだ。天応1年(781年)致仕を請い許された。時に正二位、右大臣。87歳で没。伝に、清麻呂は数朝に仕えて国の元老であり、年老いても朝務に精勤し怠ることはなかったとある。
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