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巻第19(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第19-4266・4267

訓読

4266
あしひきの 八(や)つ峰(を)の上(うへ)の 栂(つが)の木の いや継(つ)ぎ継ぎに 松が根の 絶ゆることなく あをによし 奈良の都に 万代(よろづよ)に 国知らさむと やすみしし わが大君(おほきみ)の 神(かむ)ながら 思ほしめして 豊(とよ)の宴(あかり) 見(め)す今日(けふ)の日は もののふの 八十伴(やそとも)の男(を)の 島山に 赤(あか)る橘(たちばな) うずに挿(さ)し 紐(ひも)解(と)き放(さ)けて 千年(ちとせ)寿(ほ)き 寿(ほ)き響(とよ)もし ゑらゑらに 仕(つか)へ奉(まつ)るを 見るが貴(たふと)さ
4267
天皇(すめろき)の御代(みよ)万代(よろづよ)にかくしこそ見(め)し明きらめめ立つ年の端(は)に

意味

〈4266〉
 多くの峰々に生い茂る栂(つが)の木のように、いよいよ次々に、松の根の絶えることがないように、ここ奈良の都で、いついつまでも国をお治めになろうと、我が大君が、神の御心のままにおぼしめされて、豊の宴(うたげ)をなさる今日という日は、多くの官人が御苑の山に赤く輝く橘を髪に挿し、 衣の紐を解いてくつろぎ、大君の千年を寿(ことほ)ぎ、一斉に祝いの声をあげ、笑い楽しんでお仕え申し上げるさまを目にすると、ただただ貴い。
〈4267〉
 天皇の御代がいついつまでも続き、このように豊の宴をお開きになり、御心を晴れやかにされますよう、新たに来る年ごとに。

鑑賞

 少納言となり越中から帰京した大伴家持が、天皇の詔に答えるためにあらかじめ作った歌。新年の賀宴では、詔によって賀歌を献ずることがあったので、そのためにあらかじめ作ったものです。家持は、ここの歌を含めて長反歌仕立ての宮廷讃歌を3首詠んでおり(巻第18-4098~4100、巻第19-4254~4255)、いずれも「預作歌」で「為」と記して作っています。しかし、いずれの歌も、実際に披露の目的を果たしたかは疑問とされています。

 
4266の「あしひきの」は「八つ峰」の枕詞。「八つ峰」は、多くの峰。「栂の木」は、マツ科の常緑高木。「あしひきの~栂の木の」の3句は「いや継ぎ継ぎに」を導く同音反復式序詞。「松が根の」は「絶ゆることなく」にかかる比喩的枕詞。「あをによし」は「奈良」の枕詞。「やすみしし」は「わが大君」の枕詞。「神ながら」は、神の御心のままに。「豊の宴」は、天皇が催す神聖な宴会。「見す」は「見る」の敬語ながら、ここではお催しになる意。「もののふの」は、「八十伴の男」の枕詞。「八十伴の男」は、朝廷に仕える文武百官。「島山」は、庭園の古称で、庭に造った山。「赤る橘」は、実の赤く色づいた橘。「うずに挿し」の「うず」は、頭に挿す木の枝葉など。「寿く」は、祝いごとを言う。「ゑらゑらに」は、酒を飲んで上機嫌になり笑っている様子をいう擬態語。

 
4267の「かくしこそ」の「し」「こそ」は、強意。「明きらめめ」は上の「こそ」の結びで、「明らめむ」の已然形。「明らむ」は、心を晴らす意。「立つ年の端に」は、新たに来る年ごとに。

家持の沈黙

(『孤愁の人 大伴家持』小野寛著/新典社から引用)

 万葉集にこの大仏開眼会に関する歌が一首もない。家持自身の歌はもとより、他の歌を記すことすらしていない。これはどうしたことだろう。家持は帰京後、にわかに歌の記録が乏しいのである。帰京の年、越中でも歌が少なくなっていたが、帰京の途次、都での自らの晴れの姿を空想して長歌を詠んだほど、期待に胸をふくらませての帰京だったはずである。それにもかかわらず、帰京後一年の家持の歌は、その年10月22日の紀飯麻呂家での宴歌一首(巻19-4259)と、制作年月不明の「詔に応へむために儲けて作る」長歌一首、反歌一首(同4266・4267)とが記録されているだけである。このあたりに大仏開眼にかかわる歌がなければならない。

 この帰京後の沈滞が大仏開眼会の盛儀によっても目覚めなかったのか、いやむしろその大仏建立のことを含めた沈滞であったのか。

 10月22日の紀飯麻呂家での宴の歌は家持の一首の他にも二首記録されているのだが、それは恭仁京の時の歌を伝誦したものと、飛鳥古京の時代の歌を伝誦したもので、この宴が懐古趣味のものだったと思われる。家持の応詔の予作歌は、越中からの帰路のものもこれも、どちらも天皇の肆宴に列した時を予想しての作で、うたげのその席を讃美する歌である。その「天皇」が孝謙女帝であるとすれば、両歌の長歌の結びに「酒みづき、栄ゆる今日の あやに貴さ」(巻19-4254)「紐解き放けて 千年寿き 寿きとよもし ゑらゑらに 仕へ奉るを 見るが貴さ」(同4266)と歌って期待した君臣和楽の宴は夢でしかなかった。家持の越中在任中に聖武天皇から孝謙女帝への譲位が行われたのであってみれば、家持の聖武天皇への思い入れはあとを引いてしまうだろう。それが沈滞の原因ではなかったか。

 その聖武上皇の命をかけた大仏建立が、いま完成を迎え、大仏開眼供養が営まれるとすれば、家持も歌心を昂揚させていいはずである。それなのに、万葉集に一首の歌もない。

 大仏開眼会の日の夕べ、孝謙天皇は大納言兼紫微令(しびれい)藤原仲麻呂の邸田村第(たむらのだい)に招かれ、ここに泊まった。孝謙女帝と仲麻呂との仲はすでに世間をはばからぬものになっていた。家持の沈滞は、藤原仲麻呂の専横にこそあったのである。それが歌人家持を沈黙させていた。

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古典に親しむ

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