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巻第19(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第19-4268

訓読

この里は継(つ)ぎて霜(しも)や置く夏の野に我(わ)が見し草はもみちたりけり

意味

この里は止むことなく霜が降りるのだろうか。夏の野に私が見たこの草は、もう色づいている。

鑑賞

 天平勝宝4年(752年)、孝謙天皇が、母の光明皇太后とともに大納言藤原家に行幸なさった時に、色づいた沢蘭(さわあららぎ:キク科のサワヒヨドリの古名)を一株抜き取って、内侍(女官の称)の佐々貴山君(ささきやまのきみ:伝未詳)に持たせて、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)と陪従の大夫らにお贈りになった歌。藤原仲麻呂は光明皇太后の甥にあたり、仲麻呂の邸である田村第(たむらのだい)は平城京左京四条二坊の東半分の八町分を占めていたと推定されています。「この里」は、仲麻呂の邸の庭のこと。「継ぎて」は、ひっきりなしに、止むことなく。「草」は、沢蘭。沢辺に生えるもので、庭の池の辺にあったものと見られます。「もみちたりけり」の「もみち」は、黄葉する意の動詞「もみつ」の連用形。「たり」は「てあり」の約。「けり」は、詠嘆。

 一読しただけでは意味を捉えにくい歌ですが、
佐佐木信綱は、「微々たる一株の草紅葉を美しと御覧ぜられ、これを取って諸臣に賜うという御行為に、優しい女性の御面目が窺われる。一二句の格調も緊張である」と評しています。ただし、この時期、独身の女帝と仲麻呂は愛人関係にあったともいわれ、それを念頭に置くと、なかなか意味深長な相聞ととれます。しかも、光明皇太后も同道していたのですから、二人の仲は世間に知られ、皇太后も認める関係だったのでしょうか。

 この行幸に供奉する廷臣の中には、少納言
大伴家持も含まれていたことでしょう。少納言は天皇に侍従する役目があるからです。この天皇御製も家持の手によって記録されたものと見られますが、いかにもそっけなく、自らの歌も残していません。

藤原仲麻呂の略年譜

706年
藤原南家の祖・藤原武智麻呂の次男として誕生する
737年
父・武智麻呂が天然痘で死去。その後、叔母である光明皇后の信任を得て頭角を現す
749年
紫微内相(光明皇后のために新設された紫微中台の長官)に就任
756年
聖武上皇が崩御。遺詔により、道祖王から大炊王(のちの淳仁天皇)へ皇太子の交替を主導する
757年
橘奈良麻呂の変:仲麻呂の権力独占に不満を抱く勢力による反乱計画を未然に鎮圧し、政敵を排除
758年
大炊王を天皇(淳仁天皇)として即位させる。藤原豊成に代わり、太政官の事実上のトップである中納言となる
760年
太師(太政大臣)に任じられ、最高位に極める
762年
淳仁天皇から「恵美押勝(えみのおしかつ)」の賜姓を受ける
764年
孝謙上皇と僧・道鏡が権力を強めると、対立を深める
藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱):孝謙上皇・道鏡を排除するため挙兵するが、孝謙上皇側の素早い対応により官軍に追いつめられる
近江国(滋賀県)で捕らえられ、妻子とともに斬首される 

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孝謙天皇について

 孝謙天皇は、聖武天皇と光明皇后の第一皇女として生まれ、同母弟の基(もとい)親王が早世したため、21歳で女性として初めての皇太子に立てられ、749年、父帝の譲位を受けて32歳で即位しました。当時の政治の実権は光明皇太后と藤原仲麻呂(皇太后の甥)が握っていましたが、新帝は格別の不満を抱くことなく、日々の政務をこなしていました。それから9年後の758年、女帝は病気になった皇太后に仕えるという理由で、皇太子の大炊王(おおいおう:淳仁天皇)に譲位し、太上天皇となります。

 一方、恵美押勝という姓名を与えられた藤原仲麻呂は、貨幣鋳造権を与えられるなど権力が急拡大し、孝謙上皇をないがしろにして独断専行に走ることが多くなりました。しかし、760年に光明皇太后が崩御すると、大きな後ろ盾を失った仲麻呂の立場は微妙になっていきます。761年、上皇が急病に臥せり、看護にあたった弓削氏の僧で医療の心得もある道鏡が、献身的な治療によって回復させるという出来事がありました。以来、上皇は道鏡を寵愛し、かつての上皇の教育係だった吉備真備と共に政治の中枢を委ねるようになります。

 これに焦りを感じた仲麻呂は、淳仁天皇と図って、何とか道鏡を上皇から引き離そうとします。道鏡と二人きりで過ごすことが多くなるにつれ、上皇にはよからぬ噂が広がってきましたが、淳仁天皇の度重なる諫言にも聞く耳を持たず、仲麻呂をも疎んじて遠ざけるようになりました。若くして即位し生涯独身を余儀なくされた女帝は、44歳にして生まれて初めての恋にとりつかれてしまったのでしょうか。

 764年、仲麻呂はついに軍事準備を進め反旗を翻そうとますが、それを察知した上皇側が機先を制して圧勝、仲麻呂は近江国で敗死というあっけない結末を迎えました。仲麻呂が亡くなると、上皇は道鏡を大臣禅師に引き上げ、自らは淳仁天皇を廃して重祚、称徳天皇となります。以降、称徳天皇と道鏡の二頭体制による政権運営が6年間続き、女帝は道教を太政大臣禅師、ついには天皇と同格の法王に引き上げ、次第に道鏡に譲位することを考えだします。

 769年、女帝の心を慮った大宰府の主神(かんづかさ:管内の諸祭祀を司る長官)の中臣習宣阿曽麻呂(なかとみすげのあそまろ)が、「道鏡が皇位につけば天下泰平になる」との宇佐八幡宮の託宣を報じました。天皇はこれを確かめるため、和気清麻呂を勅使として宇佐八幡宮に送りましたが、正当な皇位継承を望む清麻呂は「この託宣は虚偽である」と上申。これに怒った天皇は、清麻呂を別部穢麻呂 (わけべきたなまろ)に改名させ、大隅国に配流しました(宇佐神宮神託事件)。

 これで道教への譲位はうまくいくと思われましたが、朝廷内の反対が強く、結局、天皇は断念せざるを得ませんでした。失意の天皇は、その翌年に崩御(享年53)。これによって道鏡の勢力はたちまち衰え、下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて下向、再び中央に戻ることなく任地で死去しました。なお、清麻呂は道鏡の失脚後に大隅国から呼び戻されて官界に復帰することができました。
 

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。