| 訓読 |
4269
よそのみに見ればありしを今日(けふ)見ては年に忘れず思ほえむかも
4270
葎(むぐら)延(は)ふ賎(いや)しき宿(やど)も大君(おほきみ)の座(ま)さむと知らば玉(たま)敷(し)かましを
4271
松蔭(まつかげ)の清き浜辺に玉(たま)敷(し)かば君来まさむか清き浜辺に
4272
天地(あめつち)に足(た)らはし照りて我(わ)が大君(おほきみ)敷(し)きませばかも楽しき小里(をさと)
| 意味 |
〈4269〉
遠目にばかり見ているだけのあなたの宅であったが、今日こうして見てからは、一年中忘れずに思われることであろう。
〈4270〉
葎がはびこるむさ苦しい庭でございますが、大君がおでましになると分かっていたら、玉を敷いておくのでしたのに。
〈4271〉
このお庭の松の木陰の清らかな浜辺に玉を敷いたならば、大君はまたお出まし下さるでしょうか、この清らかな浜辺に。
〈4272〉
天地をあまねく照らし、わが大君が治めていらっしゃるからか、この里も楽しく平穏であることです。
| 鑑賞 |
天平勝宝4年(752年)11月8日、太上天皇(聖武天皇)が、左大臣橘朝臣(橘諸兄)の宅に行幸し宴をなさった時の歌4首。4269は、太上天皇の御製。「見ればありしを」は、見ているだけだったらともかく。ただし「見れば」の原文「見者」で、「見ては」あるいは「見乍」の誤記だとして「見つつ」と訓むものもあります。「年に」は、毎年。「思ほえむかも」は、思われることであろう。諸兄邸を讃美した主賓の挨拶の御製であり、この日初めて訪れた喜びと親愛の情が込められています。太上天皇は、この時52歳。諸兄への信望は終生変わることがありませんでした。
4270は、行幸を迎えた主人、諸兄が太上天皇の御歌にお返しした歌。「葎延ふ」は、雑草が茂って荒れ果てた庭や家の様子を表す言葉で、ここは自邸を謙遜して言ったもの。「葎」は、物にまつわりつく蔓性の雑草で、一面に生い茂ります。「玉敷かましを」の「玉敷く」は、客を迎えるためにその場を飾る意の常用語。「ましを」は、事実に反する仮想。もてなしの不備を詫びて言っています。なお、この自邸は平城京内の邸ではなく、奈良山を越えた山背国の綴喜郡(つづきのこおり)井手の里にあった諸兄の別荘だったと見られています。
4271は、右大弁・藤原八束(ふぢはらのやつか)の歌。右大弁は、左弁官とともに太政官に属する右弁官の長官。藤原八束は房前(ふささき)の第三子。母は諸兄の妹で、諸兄とは叔父・甥の関係。「松蔭の清き浜辺」は、諸兄邸の庭園の池辺の景を、広い海岸に見立てて言ったもの。「君来まさむか」は、大君が行幸になられようかで、「来まさむ」は、敬語。「か」は、疑問の助詞。
4272は、少納言・大伴家持の歌。但し左注に「いまだ奏せず」とあり、作っただけで奏上せずに終わった歌です。「天地に足らはし照りて」は、天皇の威光を讃える表現。「敷きませばかも」の「敷きます」は、統治をなさる意。「か」は疑問、「も」は詠嘆の助詞。「小里」の「小」は、親愛の意を込めた美称。「里」は、諸兄の邸のある地をさして言っているもの。
なお、家持のこの歌に対し、窪田空穂は次のように述べています。「皇威をたたえることで終始している歌である。結句『楽しき小里』も、皇威をこうむってのことではあるが、この句には行幸を忝くした諸兄に対するよろこびがあり、また肆宴に列し得た家持自身のよろこびもあるのであるが、それらは極めて隠約な言い方になっている。このような詠み方をしているのは、その場合としては、自身の地位の低い遠慮から、これ以上の言い方はできなかったものと思われる。すなわち自身を引き下げて距離を置いて、おおらかな言い方をするより他はなかったと思われる。左注の『いまだ奏さず』とあるのも、遠慮よりのことと思われる。その意味では地位にふさわしい心を、豊かな形において詠み得ている歌である」。
家持の歌が未奏となった理由は分かりませんが、この宴席に列して心楽しく過ごしたことでしょう。左大臣橘諸兄は名目上は政界の筆頭に位置しており、その別邸に聖武上皇が親しく行幸する。家持は大伴氏の若き棟梁として聖武天皇に忠誠を尽くし続け、王族から臣籍降下した橘諸兄と親しくしてきて、信頼も受けている。聖武・諸兄と共にある場こそ、家持にとって最も充実した時だったはずです。一方、大納言ながらも紫微令として政治の実権を握ろうとしている藤原仲麻呂の邸には孝謙女帝と光明皇太后が親しく行幸する(巻第19-4268)。この対照的な二つのありようは、この時期の政権の実態を象徴しているものと言えましょう。

聖武天皇の略年譜
701年 文武天皇の第一皇子として生まれる
707年 文武天皇が崩御、祖母の元明天皇が中継ぎとして即位
714年 立太子される
715年 伯母の元正天皇が中継ぎの中継ぎとして即位
724年 元正天皇から譲位され、天皇に即位
729年 長屋王の変、光明子が非皇族として初めて立后される
737年 天然痘が大流行、藤原四兄弟が死去
740年 藤原広嗣の乱。恭仁京へ遷都
741年 国分寺建立の詔
743年 墾田永年私財法を制定
743年 東大寺盧舎那仏の造立の詔
744年 難波宮へ遷都
745年 平城京に還都
749年 阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位
752年 東大寺盧舎那仏の開眼法要
756年 崩御(享年56)
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