| 訓読 |
4273
天地(あめつち)と相(あひ)栄えむと大宮(おほみや)を仕へまつれば貴(たふと)く嬉(うれ)しき
4274
天(あめ)にはも五百(いほ)つ綱(つな)延(は)ふ万代(よろづよ)に国知らさむと五百(いほつ)つ綱延ふ
4275
天地(あめつち)と久しきまでに万代(よろづよ)に仕へまつらむ黒酒(くろき)白酒(しろき)を
4276
島山(しまやま)に照れる橘(たちばな)うずに刺し仕へまつるは卿大夫(まへつきみ)たち
4277
袖(そで)垂れていざ我が園(その)に鴬(うぐひす)の木伝(こづた)ひ散らす梅の花見に
4278
あしひきの山下日蔭(やましたひかげ)縵(かづら)ける上(うへ)にやさらに梅をしのはむ
| 意味 |
〈4273〉
天地と共にお栄えになるようにと、この大宮にお仕えすると思えば、尊く嬉しいことでございます。
〈4274〉
空に無数の綱が張り渡してあります。永遠にこの国をお治めになるようにと、無数の綱が。
〈4275〉
天地と共に永遠に捧げましょう、黒酒と白酒を。
〈4276〉
お庭の山に照り映える橘を髪飾りに挿して、お仕えするのは、わが大君の卿や大夫たちです。
〈4277〉
晴れ着の袖を垂らしたまま庭に参りましょう。鴬が木々を伝って散らす梅の花を見に。
〈4278〉
山下の日陰の蘰を髪に飾って賀を尽くした上に、さらに梅の花を賞美しようというのですか。
| 鑑賞 |
天平勝宝4年(752年)11月25日、新嘗会(しんじょうえ)の宴で天皇の仰せに応えた歌。「新嘗会」は、その年の新穀を天皇みずから神に供える儀式で、11月の最後の卯の日に行われました。11月25日とあるのは、太陽暦では翌年(753年)1月7日に当たります。
4273は、大納言・巨勢朝臣(巨勢奈弖麻呂:こせのなてまろ)の歌。巨勢奈弖麻呂は、天平3年(731年)従五位下。民部卿、参議、左大弁を経て、同20年(748年)正三位。天平勝宝元年(749年)従二位大納言となり、同5年に84歳で没。「天地と相栄えむと」は、天地とともにお栄えになるようにと。「大宮」は、孝謙天皇の御座所、新嘗祭を行う神殿。「貴く嬉しき」は、その事が貴くまた身にとっても嬉しいことである。係助詞がなくて連体形で結んだもので、詠歎、余情を込めたもの。
4274は、式部卿(しきぶのきょう)石川年足朝臣(いしかわのとしたりあそみ)の歌。式部卿は、文官の名帳を管理し、官人の考課、選叙、典範、大学、禄賜などを掌る式部省の長官。石川年足は、天平7年(735年)従五位下、出雲守、春宮大夫、式部卿、太宰帥、中納言などを歴任、天平宝字6年(762年)御史大夫正三位で没。この時は従四位上、65歳。「天にはも」の「天」は、ここは神殿の天井、屋根のあたりをあがめて神話的に言ったもの。「も」は詠嘆。「五百つ綱延ふ」は、たくさんの綱を張り渡してある。「綱」は、建材を繋ぎ合わせる葛(かずら)。なお、歌の下に「古歌に似ていまだ詳らかにあらず」との注記があります。
4275は、従三位・文室智努真人(ふみやのちのまひと)の歌。文室智努真人は、長皇子(ながのみこ)の子・智奴王(ちぬのおおきみ)の臣籍降下後の名。養老元年(717年)従四位下、木工頭、造宮卿などを経て、天平18年(746年)正四位上、翌年従三位、天平勝宝4年(752年)に文室真人の姓を賜りました。この時は60歳。従三位でありながら従四位上の石川年足の歌の次に置かれているのは、年足より年少だったからと見られます。「黒酒白酒」は新嘗などの儀式に用いる酒で、「黒酒」は、黒麹を入れた酒、「白酒」は普通の酒のことといいます。
4276は、右大弁・藤原八束朝臣(ふじわらのやつかあそみ)の歌。右大弁は、左弁官とともに太政官に属する右弁官の長官。藤原八束は、房前の第三子。天平12年(740年)従五位下、治部卿、参議、太宰帥などを歴任、大納言兼式部卿で没。この時38歳。「うずに刺し」は、髪飾りに挿し。「卿大夫たち」は、天皇のそば近くに仕える高官たち。「卿」は三位参議以上、「大夫」は四位・五位の者を指します。
4277は、大和国守・藤原永手朝臣(ふじわらのながてあそみ)の歌。永手は、房前の第二子。八束の兄。天平9年(737年)従五位下、天平勝宝2年(750年)従四位上、同4年大和守、同6年従三位となり、のち左大臣正一位で没。この時39歳。「袖垂れて」は、裄(ゆき)の長い筒袖が手の先に垂れたさまで、ぶらぶらと歩む姿。「いざ我が園に」は、さあ私の園を見に行こうの意で、永手が設けたこととして言っています。「鴬の木伝ひ散らす梅の花見に」は、鶯にも梅にも早すぎる時季なので、戯れに言ったものと見えます。
4278は、少納言・大伴家持の歌。「山下日蔭」は、山の下に生えている日蔭の葛(かずら)。蔓性の植物で、これを縵にするのは新嘗会の礼装とされました。「縵く」は、縵として頭につける意。「上にやさらに梅をしのはむ」の「や」は、反語と解して、永手の誘いに対する断りと見る、あるいは「や」を疑問と解して永手の歌に和したものと見る、さらに反語と同時に疑問的詠嘆の意を込めたものと見る説に分かれています。この時は、家持が越中守の任を終えて帰京してから、1年3か月後における侍宴応詔歌の奏上となっています。

季節を彩る主な年中行事
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