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巻第20(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第20-4321~4323

訓読

4321
畏(かしこ)きや命(みこと)被(かがふ)り明日(あす)ゆりや草(かえ)がむた寝む妹(いむ)なしにして
4322
我が妻はいたく恋ひらし飲む水に影(かご)さへ見えて世(よ)に忘られず
4323
時々の花は咲けども何すれぞ母とふ花の咲き出来(でこ)ずけむ

意味

〈4321〉
 恐れ多くも大君の仰せを承って、明日からは草と一緒に寝ることになるのだろうか、愛する妻もいないまま。
〈4322〉
 私の妻は私のことをひどく恋しく思っているらしい。飲む水の上に面影になって見えるので、少しも忘れることができない。 
〈4323〉
 季節が変わるごとに花は色々咲くけれど、どうして母という名の花は咲いてこないのだろう。

鑑賞

 防人の歌4首。天平勝宝6年(754年)4月5日、大伴家持は兵部少輔(ひょうぶのしょうふ)に任ぜられました。軍政一般を掌る兵部省の次官の次席であり、少納言からの遷任は昇格とはいえませんが、翌年に予定されていた防人交替を見据えての人事だったのでしょうか。この時の兵部卿(長官)は橘諸兄の嫡子奈良麻呂であったらしく、橘家の推輓であったかもしれません。そして天平勝宝7年2月、新たに筑紫に派遣される交替の防人たちが東国各地から徴集されることとなり、家持はその防人たちを迎える任務につくため、難波に出向しました。

 ここの歌は、いずれも遠江国出身の防人たちの作で、4321の作者は、国造(くにのみやつこ)の丁(ちょう)、長下郡(ながのしものこうり:静岡県磐田市の旧竜洋町のあたり)の
物部秋持(もののべのあきもち)とあり、国造の家から出た、防人の中では最上級の人。「国造」は、世襲の地方官のことで、その地の豪族。国と郡が置かれることになった大化改新によって廃止されましたが、その後も大部分が優先的に郡司に任ぜられました。4322は、主帳(しゅちょう)の丁、麁玉郡(あらたまのこおり:浜松市浜北区のあたり)の若倭部身麻呂(わかやまとべのみまろ)とあり、主張(郡の四等官、公文に関する記録係)の家から出た人。「軍防令」では、兵1,000人つき2人と定められています。4323は、防人、山名郡(やまなのこおり:磐田市から袋井市にかけての一帯)の丈部真麻呂(はせつかべのままろ)とあり、一般兵士にあたります。遠江国からの行程は、上り15日と定められていました。

 
4321の「畏きや命被り」は「大君の命畏み」と同じ意で、恐れ多い勅命を受けて。防人の任命は天皇の命令としてなされ、これを忌避することは謀叛の罪として絞に処せられる規則でした。「明日ゆりや」の「ゆり」は「より」の方言。この一句によって、この歌が出発の前日に作られたことが知られます。「草がむた寝む」の「草(かえ)」は「かや」の方言で、草(くさ)のこと。「むた寝む」の「むた」は「とも(共)」の古語。「妹(いむ)」は「いも」の方言。防人たちが難波に行き着くまでの旅の宿については、「軍防令」にも記載がなく、他の歌に「草枕旅の丸寝」「旅の仮廬」などの言葉が出てくるところから、草と共に寝る野宿が基本だったのでしょう。

 
4322の「いたく恋ひらし」の「恋ひらし」は「恋ふらし」の訛り。ひどく恋しがっているらしい。「らし」は根拠のある推量。「影さへ見えて」の「影(かご)」は「かげ」の訛りで、姿、面影。ここでは水面に映った幻影。「影さへ」は、影にさえ。「世に」は、決して、全然。この歌の最大の特徴は、「私が妻を恋しく思っている」ではなく、「妻が私を恋しがっている(から、その念が水に映るのだ)」という形をとっている点です。 これは、相手の強い思い(生霊のような念)が、遠く離れた自分の元へ飛んでくるという、当時の古代的な感覚を反映しています。自分の寂しさを直接訴えるのではなく、「向こうがあまりに思うから、影まで見えてしまうのだ」と言うことで、夫婦の絆の深さをより強調しています。

 
4323の「時々の」は、季節ごとの。「母とふ花」は、母という名の花。何の花であるかは、春の七草の「ごぎょう」を「母子草」と呼んでいたともいわれますが未詳で、あるいは母を花に喩えた表現なのかもしれません。「何すれぞ」は、どうして。「けむ」は、過去推量。歌の解釈は、上掲のように現在の事実に関する疑問とすべきと思われるのに「けむ」を用いていることに不審が持たれ、難波に着いた作者が道中に見た色々な花を思い浮かべつつ、やはり母という名の花は咲いていなかった、との回想だとする説があります。しかし、防人たちが難波に向かったのは1~2月の寒い季節であり、道中に色々な花が咲いていたとは考えにくいところです。あるいは、まだ若い独身者の歌と見て、「どうして母は亡くなってしまったのか」として、出立に際して呪的見送りをしてくれるはずの母の不在を嘆く歌とする見方もあります。

 防人に指名されて国庁に集まった防人たちとその家族は、そこで防人編成式に臨み、そのあと家族と別れ、国司職の部領使(ことりづかい/ぶりょうし:引率する係りの者)に引率されて陸路難波をめざしました。また、難波までの食料などの調達はすべて自弁とされ、公粮(ひょうりょう)が支給されるのは難波に着いてからでした。彼らが難波までに辿ったルートは2つあり、一つは海沿いの東海道、もう一つは山を通る東山道(のちの中仙道)でした。東海道は、茨城県、千葉県から神奈川県、静岡県に入るルート、東山道は、栃木県(下野国)から群馬県(上野国)に行き、碓氷峠を越えて長野県(信濃国)に入り、神坂峠を越えて岐阜県(美濃国)に入るルートでした。

 部領使は馬に乗り、従者もいましたが、徒歩で行く防人たちは、夜は寺院などの宿泊場所がなければ野宿させられました。もっと辛いのが任務が終わって帰郷する際で、付き添いも無く、途中で野垂れ死にする者も少なくなかったといいます。遠い東国の人間がなぜ防人に徴集されたかの理由の一つに、強い東国の力を削ぎ、その反乱を未然に防ぐため、あえて東国の男たちを西に運んだとする見方がありますが、容易に帰れないように仕向けたのはそのためだったともいわれます。

 筑紫に着いた防人たちは、「軍防令」の定めによって土地がもらえました。自給自足の農耕を行うためです。防人といっても実際に戦う機会があったわけではなく、土地がもらえて気候が温暖で文化も進んだ地に馴染み、さらに故郷への帰途が極めて困難となれば、そのまま土着する者も少なくなかったことは想像に難くありません。
 


防人設置の経緯

 斉明天皇の治世6年(660年)7月、朝鮮半島に鼎立していた3つの国の一つ、百済が、唐の加勢を得た新羅によって滅ぼされました。といっても百済の息の根が完全にとまったわけではなく、国王や高官たちが捕えられて唐に送られた後も、遺臣たちが次々に挙兵して国勢を挽回しようとしました。中でも有力だったのが、鬼室福信(きしつふくしん)という将軍です。

 9月はじめ、来朝した百済の官人と僧によってこのことが伝えられると、日本の朝廷は愕然としました。百済と日本のつながりは強く、親善関係を持っていた国です。ショックのおさまらない10月、鬼室福信からの使者がやって来て、日本の救援を乞います。福信は、30年近く人質として日本に預けてある王子の豊璋(ほうしょう)を新国王としたいから返してほしい、それといっしょに援軍を、というものでした。

 朝議は紛糾し、結局、当時の政治を取りし切っていた皇太子・中大兄皇子の決断によって、百済救援と決まりました。68歳の老女帝の乗った軍船を中心に、皇族、高官の乗る船団が難波の津(大阪湾)を出たのは、斉明7年(661年)正月6日。3月25日に那(な)の大津(博多港)に入りましたが、7月、暑さと疲労のため、老女帝が亡くなります。皇太子には、母の死を悼むゆとりもありません。即位もせず、皇太子のままで国政を司ることになります(即位は668年)。

 遠征の先発部隊5千余人が、豊璋を伴い出発したのは翌年(662年)正月のこと。さらに1年後の3月、救援第2軍2万7千人が半島に向かい、日本としては、まさに国運をかけての大軍事行動でした。そして、8月27、8両日にわたる白村江(錦江の古名)の決戦で、日本・百済の連合軍は、唐・新羅連合軍に惨敗し、百済はついに滅んだのでした。

 事態はこれで終わりではありませんでした。勢いに乗じた唐、新羅が、いつ攻め寄せてくるか分からない緊急事態となり、その備えとして朝廷がまずとった防衛策は、壱岐・対馬・筑紫に防人を置くという制度であり、同時に烽(とぶひ:急を伝えるための狼煙)の制度であり、大宰府防衛のための水城(みづき)の築造でした。

 防人は、正式には「ぼうにん」と読み、唐の制度にならったものです。「さきもり」は日本読みで、前守、崎守、岬守などの字があてられました。辺境、特に九州北部を中心とした西海の辺境を守る軍隊という意味です。防人の制度は、実はこの時より18年前の、大化2年(646年)に出された「改新の詔」のなかに「初めて京師(みさと)を修め、畿内(うちつのくに)の国司、郡司、関塞(せきそこ)、斥候(やかた)、防人、駅馬(はゆま)、伝馬(つたはりうま)を置く」と出てきますが、この時は文書だけのきまりで、実際には、この天智3年(664年)に編成されたものであろうといわれます。

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