| 訓読 |
4324
遠江(とへたほみ)志留波(しるは)の礒と尓閇(にへ)の浦と合ひてしあらば言(こと)も通(かゆ)はむ
4325
父母(ちちはは)も花にもがもや草枕(くさまくら)旅は行くとも捧(ささ)ごて行かむ
4326
父母(ちちはは)が殿(との)の後方(しりへ)のももよ草(ぐさ)百代(ももよ)いでませ我(わ)が来(きた)るまで
4327
我(わ)が妻も絵に描(か)き取らむ暇(いつま)もが旅行く我(あ)れは見つつ偲(しの)はむ
| 意味 |
〈4324〉
遠江の志留波の磯と、今いる尓閇の浦が接していたならば、せめて言葉なりとも交わすことができるのに。
〈4325〉
父母が、せめて花であってくれればなあ。そしたら旅に出るにしても捧げ持って行こうものを。
〈4326〉
父母が住んでいる母屋の裏手のももよ草、そのの名のごとく、どうか百歳までお達者で、この私が帰って来るまで。
〈4327〉
我が妻をせめて絵に描き写す暇があったらなあ。長い旅路でその絵を見ながら妻をしのぶことができるのに。
| 鑑賞 |
遠江国(今の静岡県西部)の防人の歌4首。作者は、4324が山名郡(やまなのこおり)の丈部川相(はせつかべのかわい)。「山名郡」は、磐田市から袋井市にかけての一帯。4325が佐野郡(さやのこおり)の丈部黒当(はせつかべのくろまさ)、4326が同じ郡の生壬部足国(みぶべのたるくに)。「佐野郡」は、掛川市の一部と周智郡森町の一部。4327が長下郡(ながのしものこおり)の物部古麻呂(もののべのこまろ)。「長下郡」は、磐田市の旧竜洋町のあたり。
4324の「遠江(とへたほみ)」は「遠つあふみ」の約「とほたふみ」の地方音で、今の静岡県西部。都に近い近江に対する名称ですが、元々「あふみ」は「淡海」で、淡水湖を意味する普通名詞。「志留波の礒」と「尓閇の浦」の所在は、さまざまな説があるものの未詳。「合ひてしあらば」は反実仮想で、接していたならば、一続きになっていたならば。「通(かゆ)はむ」は「かよはむ」の訛り。「言通ふ」は、離れ住む者相互の間に便りがあること。「む」は、せめて~だけでも、の意。旅の道中での作らしく、急に防人として出立せねばならず、妻に別れを告げる暇がなかったことを嘆いています。
4325の「父母も」の「も」については、「父も母も」の上の方のモを略したとする見方や、せめて~でも、のような希求の気持ちを表して用いられる場合があるとの見方があります。ここは後者に従って解釈しています。「花にもがもや」の「もがも」は希求で、~であればよい、の意。「や」は、感動の助詞。「草枕」は、草を枕に寝る意で「旅」に掛かる枕詞。「捧ごて」は「捧げて」の訛り。ササゲはサシアゲの約で、目よりも高く大切に戴き持つこと。
4326の「殿」は、宮殿などの豪壮な居宅のことで、父母の住家を賛美して言ったもの。「ももよ草」は、未詳ながら、花びらの多い草という理解から、菊ではないかとする説が有力です。これには、菊は、延暦16年(797年)の桓武天皇の御製にはじめて見えるものだから万葉時代に菊ははなかったとの説がある一方、『懐風藻』(天平勝宝3年:751年)の詩に、野生ではなく立派に栽培されていたらしい菊を詠んだものがあるという反論があります。かりに菊だとしても、この防人が故郷を発った季節に、その花が咲いていたかの疑問は残ります。上3句は「百代」を導く同音反復式序詞。「百代」は、百年で、いつまでもの意。「いでませ」は、いらせられませの意。「我が来るまで」は、任務を終えて筑紫から帰って来る時まで。防人は21歳から60歳までの正丁から選ばれましたが、まだ子供のような独り身の青年たちも多かったようです。
4327の「我が妻も」の「も」は、4325の「父母も」の「も」と同様、せめて~でも、の気持ちを込めた用法。「暇(いつま)」は、イトマの訛り。「もが」は、願望の助詞。防人に指名されると、出発までの間に余裕がなく、肌身離さず持っていたい妻の絵姿を描けない嘆きを歌っています。窪田空穂は、「防人に立つ年齢の者に、そうした嗜みのあったということは驚くに足りる」と言い、詩人の大岡信も、絵(原文では画)という文字に「衝撃でさえある事実を伝える」と言っています。
なお、4321からここの4327までの7首が遠江国の防人の歌であり、この歌の後ろに「二月の六日、防人部領使(さきもりのことりづかひ)遠江国の史生(ししやう)坂本朝臣人上(さかもとのあそみひとかみ)が進(たてまつ)る歌の数十八首。ただし拙劣(せつれつ)の歌十一首あるは取り載せず」との記載があります。坂本朝臣人上は、天平勝宝末年頃、造東大寺司。国ごとにまとめられた歌の末尾に、上記のように「進上された歌の数は〇〇首。但し、拙き歌△△首は取り載せず」というような注記があり、防人の歌は、部領使がその職責として必ず進上しなければならなかったことが分かります。進上された歌は合計166首と記録されており、採録されたのは84首で、半数近くが拙劣歌として除かれています。和歌作りはなかなか厳しい世界だったようですが、「拙き歌」と判断されたのがどのような歌だったのか、むしろそちらの方が気にかかるところであり、今となっては、何と余計なことをしてくれたと思わざるを得ません。
10か国それぞれの部領使を通じて兵部省に提出された日付は、国ごとに付された左注によって明らかになっており、遠江が2月6日、相模が2月7日、駿河が2月7日(実際は9日)、上総が2月9日、常陸と下野が2月14日、下総が2月16日、信濃が2月22日、上野が2月23日、最後の武蔵が2月29日となっています。こうした防人歌収集が、それまでにも行われていたかどうかは不明です。提出された防人歌は、国ごとに同一の場で作られ、その場での歌の流れを意識して作歌されたものと考えられています。かつては一般農民と捉えられていた防人たちですが、むしろ歌の様式を理解し、その場で詠まれた歌の内容を理解し、求められる歌を作るだけの技量や知識を持つ階層の人だったことが窺えます。しかし、決して全員がそうだったのではなく、中には技量や知識が乏しいままに詠んだ防人もいたのでしょう。

『万葉集』クイズ
次の歌はいずれも防人の歌です。それぞれの歌の〇の中に当てはまる語を、ひらがなで答えてください。
【解答】 1.かげ(影) 2.はな(花) 3.みづどり(水鳥) 4.いも(妹) 5.さきもり(防人) 6.こと(言) 7・からころむ(コロムはコロモの訛り:韓衣) 8.ひも(紐) 9.せ(背) 10.つくし(筑紫)
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