| 訓読 |
4349
百隈(ももくま)の道は来(き)にしをまた更(さら)に八十島(やそしま)過ぎて別れか行(ゆ)かむ
4350
庭中(にはなか)の阿須波(あすは)の神に小柴(こしば)さし我(あ)れは斎(いは)はむ帰り来(く)までに
4351
旅衣(たびころも)八重(やへ)着重(きかさ)ねて寐(い)ぬれどもなほ肌寒(はださむ)し妹(いも)にしあらねば
| 意味 |
〈4349〉
多くの曲がりくねった道をここまではるばる来たのに、さらにまた多くの島をめぐって漕いで別れて行かねばならないのか。
〈4350〉
庭の中に祀っている阿須波の神に小柴を刺し、私は無事を祈ろう。帰ってくるまでの間を。
〈4351〉
旅の着物を何枚も重ねて寝るのだけれど、やはり肌寒い。隣にいるのが妻ではないので。
| 鑑賞 |
上総国(千葉県中央部)の防人の歌。作者は、4349が助丁の刑部直三野(おさかべのあたいみの)、4350が帳丁の若麻続部諸人(わかおみべのもろひと)、4351が望陀郡(まぐたのこおり)の上丁、玉作部国忍(たまつくりべのくにおし)。「望陀郡」は、千葉県南部の袖ケ浦市、木更津市、君津市東部などの地域。上総国からの行程は、上り30日と定められていました。
4349の「百隅」は、多くの曲がり角。「隈」は、物陰にあって周囲からは見えにくい部分を言います。「道は来にしを」の「道」は、上総から難波までの道筋のこと。「を」は逆接で、道をここまではるばる来たのに。「八十島」は、多くの島。難波から九州へ向かう瀬戸内海の島々を指します。「別れか行かむ」は、疑問の係助詞「か」+推量の助動詞「む」の連体形による係り結びで、別れて行くのであろうか。遥々陸路を辿ってきて、さらに難波から船出する時の歌のようで、運命に対する静かな、しかし深い抵抗と嘆きを表しています。
4350の「庭」は、収穫物を処理する作業場を広く言い、ここは農家の庭先だろうとされます。「阿須波の神」は『古事記』に出てくる農業神。いわゆる屋敷神として木・石・祠などで神を祭っていたと見られています。「小柴さし」は、神式の一つで、神を祭る清浄な場所であることを示すため境に柴を刺す行為。現在でも行われている地域があり、宇佐八幡宮の柴刺し神事は有名です。「斎ふ」は、精進して祈る。「帰り来までに」は、家に帰るまでの間を。本人の歌として記されていますが、故郷に残った家族が歌ったもののようです。
4351の「八重着重ねて」は、何枚も重ねて着て。「寐ぬれども」は、寝てはみるものの、眠ろうとするけれど。「妹にしあらねば」の「し」は、強意の副助詞。旅衣は妻でないから、隣にいるのは妻ではないから、の意。時は2月であり、それでも旅寝は着たままの丸寝だったのです。当時の防人の衣服は、主に麻で作られていました。麻は通気性が良く、冬や夜の冷え込みには厳しい素材です。実際に寒かったのでしょうが、その「肌寒さ」を単なる気象条件にせず、「妻がいないからだ」と断定する点に、東国人の情熱と繊細さが同居しています。

防人歌について
防人歌は東歌の中にも数首見られますが、一般には巻第20に収められた84首を指します。これらは天平勝宝7年(755年)に、諸国の部領使(ことりづかい:防人を引率する国庁の役人)に防人らの歌を進上させ、当時、兵部少輔(兵部省の次席次官)の官職にあり、防人交替業務を担当していた大伴家持が選別して採録しました。なぜ組織的にそのようなことが行われたかについては、防人たちの心情を伝える記録として、防人制度検討に際しての参考資料とするためだったようです。当時の兵部省の長官は橘奈良麻呂で、その父は左大臣の諸兄でしたから、諸兄から奈良麻呂を通じて、家持に防人歌収集の命が下された可能性があります。一方で、家持自身が、父の旅人以来の防人廃止を願う執念から、防人の窮状を訴える歌を収集したとする意見もあります。
なお、防人歌は長歌1首を除き、東歌と同様にすべてが完全な短歌形式(5・7・5・7・7)で一字一音の音仮名表記による統一した書式になっているところから、家持に進上されるまでに役人の手が加わった可能性が高く、さらには家持による改作が行われた跡が窺える点には留意すべきです。とはいえ、防人たちの根本の発想や気持ちを伝える歌であることには違いありません。
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