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巻第20(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第20-4355~4359

訓読

4355
よそにのみ見てや渡(わた)らも難波潟(なにはがた)雲居(くもゐ)に見ゆる島ならなくに
4356
我(わ)が母の袖(そで)もち撫(な)でて我(わ)がからに泣きし心を忘らえぬかも
4357
葦垣(あしがき)の隈処(くまと)に立ちて我妹子(わぎもこ)が袖(そで)もしほほに泣きしぞ思(も)はゆ
4358
大君(おほきみ)の命(みこと)畏(かしこ)み出(い)で来れば我(わぬ)取り付きて言ひし子なはも
4359
筑紫辺(つくしへ)に舳(へ)向(む)かる船のいつしかも仕(つか)へまつりて国に舳(へ)向(む)かも

意味

〈4355〉
 ただ見るだけで渡って行くのか、この難波潟は、雲の彼方に見える遠い離れ島というわけではないのに。
〈4356〉
 私の母が、袖で頭を撫でてくれながら、私のために泣いてくれた。その気持ちは忘れようにも忘れられない。
〈4357〉
 葦の垣根の隈に立って、愛しい妻が袖もぐっしょり濡れるほどに泣いた。その姿が思い出されてならない。
〈4358〉
 大君の仰せを恐れ畏んで旅立つその時に、私にしがみついてあれこれ訴えていた可愛い女よ、ああ。
〈4359〉
 筑紫の方角に舳先を向けて進む船は、いつかになったら任務を終えて、故郷へ舳先が向くのだろうか。

鑑賞

 上総国(千葉県中央部)の防人の歌。作者は、4355が武射郡(むざのこおり)の上丁、丈部山代(はせべのやましろ)の歌。「武射郡」は、山武市の大部分とその周辺を含む地域。4356が山辺郡(やまのへのこおり)の上丁、物部乎刀良(もののべのおとら)の歌。「山辺郡」は、東金市、大網白里市、九十九里町などの地域。4357が同国市原郡(いちはらのこおり)の刑部直千国(おさかべのあたいちくに)。「市原郡」は、市原市と千葉市緑区の一部にあたる地域。4358が種淮郡(ずえのこおり)の物部竜(もののべのたつ)。「種淮郡」は、君津市を流れる小糸川の流域一帯。4359が長柄郡(ながらのこおり)の若麻続部羊(わかおみべのひつじ)。「長柄郡」は、茂原市と長生郡の一部の地域。

 
4355の「よそにのみ見てや渡らも」の「よそにのみ見る」は、遠くから眺めるだけで関係を持たないこと。「見てや渡らも」の「や」は疑問。「渡らも」は、推量の表現である渡ラムの訛りで、通り過ぎていってしまうのだろうか(いや、それは寂しい)という嘆きが含まれています。「難波潟」は、現在の大阪湾一帯。「雲居に見ゆる」は、雲の居る所に見える。「島ならなくに」は、島ではないのに。難波に着いて出航の日を待って過ごしている間に詠まれたもののようです。この歌について窪田空穂は、「屈折の多い言い方をしているもので、これを中央の京の歌としても、あまりにも文芸的な言い方で、解しやすくないものである。防人の歌とすると、甚しく加筆したものにみえる」と言っています。

 
4356の「袖もち撫でて」の「袖もち」は、袖を用いて、袖を以て。「撫でて」は、部位を特定されない場合は頭を撫でることに限られます。「我がからに」は、私のことゆえに、私のせいで。自分の出征が母をこれほどまでに悲しませている、という作者の申し訳なさと、それ以上に深い母の愛への気づきが含まれています。「忘らえぬかも」は、忘れようとしても、自然と思い出されてしまうなあ、という自発の表現。「かも」は詠嘆で、旅路の空に消えていくような余韻を残します。ここでも4346の歌と同じように「頭を撫でる」行為がうたわれています。単に撫でるのではなく、旅の無事を祈り、祝の言葉に伴わせる一つの呪法であったようです。ただ、「我が母の袖もち撫でて」は、母が私の袖を撫でて、とする解釈もあります。

 
4357の「葦垣」は、葦を刈って編んだ簡単な垣。「隈処」は、周囲から見えにくい物陰。「しほほに」はシホシホの略で、涙にびっしょりと濡れている形容。ただし、用例はこの1首のみです。「泣きしぞ思はゆ」は、泣いていた姿が、今も思い出されてならない。強調の「ぞ」+連体形の「思はゆ」による係り結びです。秘密にしていた関係の妻だったのでしょうか、公の場所ではなく、人目を忍んで別れを惜しみ、ひどく泣いた、あるいは長時間泣いたようすが歌われています。

 
4358の「大君の命畏み」は、天皇の命令を重く受け止めて、という、防人歌の定型句。「我(わぬ)取り付きて」のワヌはワレの訛り。妻が作者の体にガシッとしがみついてきた様子を指します。「言ひし子な」の「言ひし」は、行かないでほしい、とか、連れて行ってくれ、とかの切なる訴えだったのでしょう。「子な」は、子ラの方言。「子」は、男性が女性を親しんで言う語。「はも」は、強い詠嘆。この歌について窪田空穂は、「この妻も人には秘密にしてある関係の者なので、晴れての見送りもできず、男の旅の通路に待ち構えていて、ひそかに男に逢ったことをあらわしている」と言い、斎藤茂吉は「『我の取り付きて言ひし子なはも』の句は、現実に見るような生き生きしたところがあっていい」と評しています。

 4359は、難波津から乗ろうとする船を眺めて作った歌。「筑紫辺に」は、筑紫の方へ。「舳」は船の先端、つまり進む方向を象徴します。「向かる」は、向ケルの訛り。「いつしかも」は、いつになったら、一日も早く、という、切実な時間への希求。3年という長い任期を前にして、すでにその終わりを待ち望む本心が漏れています。「仕へまつりて」は、任務を完了して。「舳向かも」の「向かも」は向カムの訛りで、願望のニュアンスを含みます。

 なお、4347からこの4359までの13首が上総国の防人の歌であり、この歌の後ろに「二月の九日、上総国の防人部領使(さきもりのことりづかひ)少目(せうさくわん)従七位下
茨田連沙彌麿(まむだのむらじさみまろ)が進(たてまつ)る歌の数十九首。ただし拙劣(せつれつ)の歌は取り載せず」との記載があります。下茨田連沙彌麿は、伝未詳。
 

古代の人々の名前

 『古事記』の垂仁天皇の段に「凡(およ)そ子の名は、必ず母の名(なづ)くるに、・・・」と述べられているが、実際には誰が名付ける習慣であったのかはわからない。奈良時代の戸籍に見える名前を眺めていると、いろいろと興味深いことに気づく。

 たとえば、養老5年(721年)の下総国葛飾郡大島郷の戸籍には、与理売(よりめ)の次の子が古与理売(こよりめ)、その次の子が真与理売(まよりめ)、さらにその次の子が若与理売(わかよりめ)、といった名前が見える。二人目以降には「古」や「真」や「若」をつけただけというような兄弟は多い。それと、動物にちなむ名前が多いのも、この時代の特徴であろうか。戸籍や計帳の作成にあたって、実際には役人が戸ごとに調査してまわったと考えられるが、名前を書き上げていく際に、役人が便宜上、名前をつけてしまった可能性はある。動物にちなむ名前は、生まれた年の干支(えと)によってつけたとも考えられるが、必ずしも生まれた年の干支と一致しない例もある。あるいは、それぞれの動物のイメージを、その子の理想的な姿として名前に託したのであろうか。

 なかには、とんでもない名前をつけられてしまった者もいる。大宝2年(702年)の御野国味蜂間郡春部里の戸籍には、「阿弥多(あみだ)」と「无量寿(むりょうじゅ)」の兄弟が見える。親がよほど仏教に関心があるのか、それとも役人が戸籍に名前を記録する際にふざけたのであろうか。神護景雲2年(768年)には、政府が「仏菩薩」と「聖賢之号」を名前に用いてはならないという命令を出して、仏にかかわるような名前を禁止した。「阿弥多」や「无量寿」は、こうした名前の事例として変更させられただろう。

 当時は男性には「〇〇まろ」、女性には「〇〇め」という名前が多い。「まろ」は「麻呂」「万呂」「萬侶」などと書かれ、「め」も「売」「女」「咩」など、いく通りかの用字があるが、どれでも通用する。音が合っていればどんな漢字でもよく、読み方が定まっているだけで、表記は自由であった。

 「麻呂」は8世紀の前半までは、「麻呂」と2文字に分けて書いていたが、よく使われたために、8世紀末ごろには1文字で「麿」と書かれることが多くなる。また、平安時代になると「丸」と書かれることが多くなり、中世には男性名として「〇〇丸」という書き方のほうが定着する。「牛若丸」は、平安時代の終わりの人物であったからそういう名前なのであって、彼が奈良時代に生きていたとしたら、「牛若麻呂」であったかもしれない。

~『律令国家と万葉びと』から引用

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