| 訓読 |
4363
難波津(なにはつ)に御船(みふね)下(お)ろすゑ八十楫(やそか)貫(ぬ)き今は漕(こ)ぎぬと妹(いも)に告げこそ
4364
防人に立たむ騒(さわ)きに家の妹(いむ)が業(な)るべきことを言はず来(き)ぬかも
4365
押し照るや難波(なには)の津ゆり船装(ふなよそ)ひ我(あ)れは漕(こ)ぎぬと妹(いも)に告(つ)ぎこそ
4366
常陸(ひたち)指し行かむ雁(かり)もが我(わ)が恋を記(しる)して付けて妹(いも)に知らせむ
| 意味 |
〈4363〉
難波の港に御船を引き下ろして浮かべ、たくさんの梶を並べて、さあこれから漕ぎ出そうとしていると、故郷の妻に伝えてくれないか。
〈4364〉
防人として出発していくあわただしさに紛れ、家の妻に暮らしを立てる手だてを告げずに出て来てしまった。
〈4365〉
照り輝く難波の港から、船出の準備をして、これから漕ぎ出そうとしていると、故郷の彼女に伝えておくれ。
〈4366〉
常陸を指して飛んでいく雁でもいたらよい。わが恋の苦しみを記して雁に託して、故郷の妻に伝言してもらうのに。
| 鑑賞 |
常陸国(茨城県のほぼ全域)の防人の歌。作者は、4363・4364が茨城郡(うばらきのこおり)の若舎人部広足(わかとねりべのひろたり)。「茨城郡」は、茨城県の中央部にあたり、常陸国の国府があった地。4365・4366が信太郡(しだのこおり)の物部道足(もののべのみちたり)。「信太郡」は、龍ケ崎市から稲敷市にかけての地。4367が茨城郡(うばらきのこおり)の占部小竜(うらべのおたつ)。常陸国からの行程は、上り30日と定められていました。
4363の「御船」は、官船への美称で、朝廷の命による公的な任務であるという、誇りと厳粛さが込められています。「下ろ据ゑ」は、オロシスヱの約。陸上に上げてあった船を修羅やころなどを用いて水上に移動させることを言っていると見られます。「八十楫貫き」の「八十楫」は、多くの楫。「貫き」は、櫂を船の穴に差し込むこと。多くの防人が一斉に櫂を構える、重々しくも力強い音や光景が浮かびます。「妹に告げこそ」の「こそ」は、願望の終助詞。「妻に伝えてほしい」という切なる願いであり、誰に向かって言っているのか(風か、神か、あるいは見送りの役人か)は諸説ありますが、「この瞬間の自分の姿を、妻に知っていてほしい」という、極限状態での独白です。
4364の「防人(さきむり)」は、サキモリの訛り。「立たむ騒き」は、出発の際の慌しさ。防人の招集がいかに急で、強制的であったかを示す言葉です。「妹(いむ)」は、イモの訛り。「業るべきこと」は、生活のために働くこと、生業。ここでは農作業の手順などと見られます。防人は、戦士である前に、故郷では農夫であり夫でした。彼がいなくなることは、残された妻が一人で田畑を守り、過酷な労働を担わなければならないことを意味します。愛を語れなかったという精神的な後悔よりも、「明日からの米をどうするか、畑をどうするかを教え忘れた」という実務的な後悔の方が、当時の人々にとっては、相手の生存に関わる切実な問題だったのです。
4365の「押し照るや」は「難波」の枕詞。太陽の光が海面に反射してキラキラと輝く、明るく開放的な難波の風景を象徴しています。「ゆり」は、動作の起点を表す格助詞「より」の訛り。「船装ひ」は、出航の準備。「告ぎこそ」は、告ゲコソの訛り。「こそ」は、願望の終助詞。難波の港は、これから九州へ向かう船団で活気に満ちていたことでしょう。しかし、その輝き(押し照る)が眩しければ眩しいほど、そこから零れ落ちていく防人たちの孤独や、後に残された家族の悲しみが浮き彫りになります。
4366の「行かむ雁もが」の「もが」は、願望の助動詞。行く雁があればよいがなあ。「我が恋を記して付けて」は、自分の恋心(愛する気持ち)を文字に書き記して、鳥の体に結びつけるという発想です。雁は手紙を運ぶ鳥であるという、中国の「雁信(蘓武)の故事」を踏まえた表現です。「妹に知らせむ」は、妻に知らせたい。単に「伝えてくれ」と願うだけでなく、手紙を「記して付ける」という具体的な描写があることで、作者がどれほど言葉を尽くして妻に伝えたいことがあったかが強調されています。
4363の歌は、とくに家持の手が加わっている気配が濃厚であるとする見方があります。「御船下ろすゑ」は、あたかも貴族が船出するかのような美しい表現であり、「八十楫貫き」などという言葉を防人が使わなかっただろうし、数が多いことを示す「八十」や「八」は家持が好んで使った語だから、というのがその理由です。それにしても防人の多くの兵士たちが和歌を詠み得たことには驚きますが、これは、もともと求婚の時とか宴席などで、和歌を詠み歌うことが必須とされていたという当時の生活上の必要から来ているともいわれます。さらに4366の歌に関連して、防人らの中にもある程度基本的な漢字を書ける者がいたのではないかと言われています。中央のみならず地方、特に関東から墨書土器の類が、国府や国分寺以外の、一般の集落の遺跡からもかなり出土しているのです。

防人歌について
犬養孝著『万葉の旅・中』/平凡社から引用
『万葉集』中の防人の歌は、巻20に、天平勝宝7年(755年)2月防人交替のときの歌84首、昔年の防人歌9首、計93首があり、巻14に5首がある。なお、ほかに巻14に防人の歌かと思われるものがあり、巻13にも防人の妻の作かと伝える歌2首がある。
防人は崎守の意で、九州・壱岐・対馬の西辺を防備する兵士である。「防人」の語は『日本書紀』大化2年(646年)正月の改新の詔にはじめて出るが、そのはじめは古代国家形成期にさかのぼるものであろう。万葉のころの防人は、天智3年(664年)に、その前年に百済救援にむかった日本軍が大敗して長年の半島での実権を失った直後に、防備のためにおかれたもの以後の防人である。一時、九州の兵士をあてたこともあるが、ほとんどは東国人であった。天平宝字元年(757年)には東国の防人も廃止され、以後、平安初期にはこの制度も自然消滅のかたちとなった。したがって天平勝宝7年の防人交替は東国人最後の防人となる。防人の総数は3000人ぐらいと考えられ、任期は3年、毎年その3分の1ずつ交替し、交替期は2月1日となっていた。
東国で徴集された防人は、難波まで国庁の部領使(ことりづかい)によって引率され、難波からは専使がひきつれていって大宰府にひきわたされる。万葉にもっとも多い天平勝宝7年の防人歌は、部領使から、当時兵部少輔として防人の事に関係していた大伴家持の手をへて兵部省に上進されたもので、歌には地位身分・出身郡・作者名が録されていた。万葉によれば、防人のさし出した歌166首のうち、「拙劣の歌は取り載せず」とあって、82首はすてられている。これは歌人家持のするところであったろう。万葉におさめられるまでには、他人の手による多少の変改加工のあったことは考えられるが、まずは原歌とみとめられる。ことに歌の記載が一字一音式の表記によっていることは、東歌の場合と同様、当時の東国の方言訛音をそのままのこしていて貴重であるばかりでなく、東国人のむき出しの心情を助けている。
防人らは東国から難波までの旅費は自弁であったし、こんにちとちがって難波までの陸路、難波からの海路、長途の旅路だkでも並大抵ではない。生きの別れも覚悟しなければならない。まして留守の家族の生活の保証もないとあっては、旅立つ者、残る者の感慨は想像を越えるものがある。父母との別れをうたうものが26首もあるのは、かれらが比較的年の若いことのよるものであろう。防人らの出身地が、ゆたかな民謡的世界の東歌の地盤と一致するから、個人の歌とはいっても中央人の発想とはまったくちがった民謡的においにうらづけられ、それだけにぎりぎりの際のかれらの感慨は、朴直な土の香をともなって、いきいきした真情のままにうち出されている。
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