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巻第20(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第20-4367~4371

訓読

4367
我(あ)が面(もて)の忘れも時(しだ)は筑波嶺(つくはね)を振り放(さ)け見つつ妹(いも)は偲(しぬ)はね
4368
久慈川(くじがは)は幸(さけ)くあり待て潮船(しほぶね)にま楫(かぢ)しじ貫(ぬ)き我(わ)は帰り来(こ)む
4369
波嶺(つくはね)のさ百合(ゆる)の花の夜床(ゆとこ)にも愛(かな)しけ妹(いも)ぞ昼も愛(かな)しけ
4370
霰(あられ)降り鹿島(かしま)の神を祈りつつ皇御軍(すめらみくさ)に我れは来(き)にしを
4371
橘(たちばな)の下(した)吹く風の香(か)ぐはしき筑波(つくは)の山を恋ひずあらめかも

意味

〈4367〉
 私の顔を忘れそうになった時は、筑波の峰を振り仰いでは、お前さんは私のことを偲んでくれ。
〈4368〉
 久慈川よ、変わらぬ姿で待っていてくれ。潮船に櫂をたくさんつけて急いで私は帰って来るから。
〈4369〉
 筑波の嶺に咲くさ百合の花ではないが、夜床(ゆとこ)で可愛くてならない彼女は、昼間でも可愛くてならない。
〈4370〉
 武神であられる鹿島の神に祈りを捧げながら、天皇の兵士として私はやってきたものを。
〈4371〉
 橘の樹の下を吹き抜けてくる風が、なんともかぐわしく香っている。そんな(風の吹く)筑波の山を、どうして恋しく思わずにいられようか。

鑑賞

 常陸国(茨城県のほぼ全域)の防人の歌。作者は、4367が茨城郡(うばらきのこおり)の占部小竜(うらべのおたつ)。4368が久慈郡(くじのこおり)の丸子部佐壮(まろこげのすけお)。「久慈郡」は、茨城県北部の常陸太田市、大子町とその周辺の地域。4369・4370が那賀郡(なかのこおり)の上丁、大舎人部千文(おおとねりべのちふみ)。「那賀郡」は、茨城県東海村、那珂市、ひたちなか市、常陸大宮市、水戸市にまたがる地域。4371が助丁の占部広方(うらべのひろかた)。

 
4367のの「我が面」は、私の顔。「面(もて)」は「おもて」の訛り。「忘れも時は」の「忘れも」は、忘レムの訛り。「時(しだ)」は「時」の古語。忘れそうになった時は、の意。「筑波嶺」は、筑波山。「振り放け見つつ」の「振り放け見る」は、遠く離れた高い場所を仰ぎ見ること。「偲はね」の「ね」は願望の助詞で、思い出してほしい。なお、この歌と類想の歌が、巻第14の「東歌」の中にあります。

〈3515〉
我が面の忘れむ時(しだ)は国溢り嶺に立つ雲を見つつ偲はせ
〈3520〉
面形(おもかた)の忘れむ時(しだ)は大野ろにたなびく雲を見つつ偲はむ

 遠い旅先にある間、男は、相手の女が自分の顔をはっきりと目に浮かべてくれることを必要とし、もし、はっきり浮かばない時には、空の雲を眺めて思うと浮かんでくるという信仰があったようです。4367の歌も、常陸国の高山である筑波山にいつも雲がかかっていることを踏まえて言っています。

 
4368の「久慈川」は、福島県に発し東に流れ、太平洋に注ぐ川。下野国の防人たちが九州へ向かう際、東海道を下るルート上で渡った大きな川の一つで、彼らにとっての境界線のような場所でした。「幸くあり待て」の「幸(さけ)く」は、サキクの訛り。「無事で待っていてくれ」という擬人化された表現で、川に向かって呼びかけることで、同時にそのほとりに住む人々や、故郷そのものへ「変わらずにいてくれ」と願っています。「潮船」は、海上を行く船で、河船に対しての称。「ま楫しじ貫き」は、楫をいっぱい通して。「我は帰り来む」の「む」は、強い意志を表す助動詞。窪田空穂は、「この防人は、久慈河との別れを惜しみ、河を祝って、わが勢よい帰りを待てといっているのである。こうした特殊なことをいっているのは、この防人の生活は久慈河に深いつながりがあり、河船を漕ぐことを業としているところからのことであろう」と述べています。 

 
4369の「筑波嶺」は、茨城県西部の筑波山。「さ百合(ゆる)」の「さ」は美称、「百合(ゆる)」は、ユリの訛りで、山百合の花。上2句は「さゆる」の「ゆ」が「ゆどこ」の「ゆ」の音に通じるところから「夜床」を導く同音反復式序詞。「夜床(ゆとこ)」は、ヨトコの訛り。「愛しけ」は、愛シキの訛り。「かなし」は現代の「悲しい」ではなく、古語では、愛おしい、切ないほど可愛い、という意味です。東歌といってもよい、防人とは全く関係なさそうな恋歌となっており、上句は「ゆ」の音、下句は「け」のリフレインで美しい韻を含んでいます。そして、妹の可愛さを称えるのに終始しているこの歌を、斎藤茂吉は、「言い方が如何にも素朴直截で愛誦するに堪うべきもの」と評しています。筑波山は、『万葉集』で最も多く詠まれた山であり、うち常陸国の東歌12首中11首、防人歌10首中3首に歌われています。しかも景観を主題とするものではなくて、あくまで生活と結びついた親しい郷土の山として歌われています。古代には、筑波山の深い信仰に結ばれて農村の集落が展開していたのでしょう。

 
4370の「霰降り」は、あられが降って喧(かしま)しいことから、同音の「鹿島」に続く枕詞。「鹿島の神」は、古来、武神として崇められた鹿島神宮。この祭祀をつかさどっていた中臣氏が中央で勢力を得て藤原氏となって以来、藤原氏の氏神となりました。「皇御軍」は、皇軍の兵士。作者は常陸の国府を出立し、その道すがら長久を祈願したのでしょうか。この歌は、かつての大戦中に政府指導で出された「愛国百人一首」に戦意高揚の歌として選ばれ、「我れは来にしを」を「我れは来たものを、何で逡巡などするものか」などと、武人としての強い決意を述べた歌と解されました。しかし、それは牽強付会と言わざるを得ず、前後の歌との関係からも、末尾の句には、無事に帰還できるだろうか、また妻に逢えるだろうかという不安と危惧の気持ちが込められているものと解せられます。

 言語学者の
犬養孝も、「戦時中には単に”皇軍の意識”ということであおり立て、同じ作者の『筑波嶺のさ百合の花の夜床にもかなしけ妹そ昼もかなしけ』(巻第20-4369)の歌はめめしい私情として伏せられがちだったが、”百合の花の咲くなつかしい筑波山の郷土、そこにおいてきた美しい妻、夜の寝床でもかわいかったあの女(こ)は昼もかわいくてたまらない”と、私に徹する愛情の律動を訴える人であってこそ「われは来にしを」の深い感慨を見るのではなかろうか。同一人の作であることを見すごすことはできない」と述べています。

 
4371の「橘」は、ミカン科の常緑樹で、常世の国の木と伝えられる聖木。初夏に芳香のある白色の花が咲き、古来、懐かしさや過去の思い出を呼び起こす香りとされてきました。常陸風土記には、行方(なめかた)郡(霞ヶ浦と北浦との間)および香島郡(北浦と鹿島灘との間)には橘の木が生い茂っていることが記されており、また行方郡の新治の洲から筑波山が望見できるとも書かれています。この時は1月であるので、ここは橘の熟した実を指したもの、あるいは初夏の頃を思い出したものか。「下吹く風の」の「の」は、~のように。「香ぐはしき」は、香りが霊妙な。「恋ひずあらめかも」の「かも」は反語で、恋い焦がれずにいられようか。作者は、悲しみに沈むのではなく、故郷の美しさを肯定することで自分を奮い立たせています。防人として遠い九州へ向かう過酷な旅路。その不安な心に、故郷で嗅いだ橘の香りが蘇ります。橘は常緑樹であるため、永遠や不変の象徴でもあります。「あの美しい山、あの香る風は、私がいない間もずっとあそこにあり続けるのだ」という確信が、作者の心の支えになっているのです。
 

『愛国百人一首』

 昭和17年(1942年)に日本文学報国会が選定した『愛国百人一首』には、『万葉集』から23首が選ばれており、そのうちの6首が防人歌で、いずれも「皇室への忠誠心」や「家族への敬慕」を詠んだものとなっています。『愛国百人一首』は、戦時中の翼賛運動の一環として、「愛国の精神が表現された」とする名歌百首を選んだもので、皇室への崇敬を筆頭に、国土愛や家族愛の歌が採られています。

  • 大君の命畏み磯に触り海原渡る父母を置きて(4328)
  • 真木柱讃めて造れる殿のごといませ母刀自面変はりせず(4342)
  • 霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍に我れは来にしを(4370)
  • 今日よりは返り見なくて大君の醜の御楯と出で立つ我れは(4373)
  • 天地の神を祈りて猟矢貫き筑紫の島を指して行く我れは(4374)
  • ちはやぶる神の御坂に幣奉り斎ふ命は母父がため(4402)

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万葉集ゆかりの地(東国)

  • 足柄の御坂
    「足柄の御坂畏み曇り夜の我が下ばへをこち出つるかも」(巻第14-3371)
    相模国から駿河国へ越える足柄峠。急峻な坂として恐れられ、そのため神のいます坂とされたようです。
  • 伊香保嶺
    「伊香保嶺に雷な鳴りそね我が上には故はなけども子らによりてぞ」(巻第14-3421)
    群馬県の榛名山(1448m)。この時代、「伊香保」は現在の伊香保温泉周辺だけでなく、榛名山一帯を指す地名でした。
  • 鹿島の神
    「霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍に我れは来にしを」(巻第20-4370)
    茨城県鹿島郡鹿島町にある鹿島神宮。建御雷(たけみかずち)の神を祀っています。
  • 子持山
    「子持山若かへるでのもみつまで寝もと我は思ふ汝はあどか思ふ」(巻第14-3494)
    群馬県渋川市北方の子持山(1296m)。
  • 佐野の舟橋
    「上つ毛野佐野の舟橋取り離し親は放くれど我は離るがへ」(巻第14-3420)
    『枕草子』第65段に「橋は」とある中に、当時有名だった橋の名が18列挙されており、その6番目に「佐野の舟橋」が出てきます。「舟橋」というのは、舟を何艘か横に並べ、その上に丸太や板を渡した橋のこと。その所在は、群馬県高崎市の烏川(からすがわ)流域または栃木県佐野市などとする説があります。
  • 手綱の浜
    「遠妻し多珂にありせば知らずとも手綱の浜の尋ね来なまし」(巻第9-1746)
    茨城県高萩市高戸の北の海岸。一説に高戸の南の関根川河口付近の浜。
  • 千曲の川
    「信濃なる千曲の川の細石も君し踏みてば玉と拾はむ」(巻第14-3400)
    現在の千曲川。原文では「知具麻能河」と表記されており、「ちぐま」と濁って発音されたようです。長野県南佐久郡に流れを発し、長野市の犀川で合流し、新潟県に入ると信濃川と呼ばれます。
  • 筑波嶺
    「筑波嶺に雪かも降らる否をかも愛しき児ろが布乾さるかも」(巻第14-3351)
    現在の筑波山(876m)で、男岳・女岳の2峰を持つ名山として著名です。
  • 真間の井
    「勝鹿の真間の井を見れば立ち平し水汲ましけむ手児奈し思ほゆ」(巻第9-1808)
    千葉県市川市真間付近の地にあった井。今、手児奈堂の北側の亀井院に真間の井と称する古井戸を伝えています。
  • 見越の崎
    「鎌倉の見越の崎の岩崩えの君が悔ゆべき心は持たじ」(巻第14-3365)
    鎌倉の海岸にある突き出した岬の名称。現在の稲村ヶ崎あるいは由比ヶ浜周辺の突出部とする説がありますが、未詳。
古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。