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巻第20(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第20-4376~4380

訓読

4376
旅行きに行くと知らずて母父(あもしし)に言(こと)申(まを)さずて今ぞ悔(くや)しけ
4377
母刀自(あもとじ)も玉にもがもや戴(いただ)きてみづらの中に合(あ)へ巻かまくも
4378
月日(つくひ)やは過(す)ぐは行けども母父(あもしし)が玉の姿は忘れせなふも
4379
白波(しらなみ)の寄そる浜辺に別れなばいともすべなみ八度(やたび)袖(そで)振る
4380
難波津(なにはと)を漕(こ)ぎ出て見れば神(かみ)さぶる生駒高嶺(いこまたかね)に雲ぞたなびく

意味

〈4376〉
 こんなに長い旅路になるとも知らないで、母父に別れの言葉も告げずに出てきたが、今となって悔やまれてならない。
〈4377〉
 母上がもしも玉であってくれたら、捧げ戴いてみづら髪に一緒に巻きつけように。
〈4378〉
 月日だけはどんどん過ぎて行くけれど、母さん父さんの玉のような姿は忘れれことができない。
〈4379〉
 白波が打ち寄せてくる浜辺へ別れて行ってしまえばどうしようもないので、今ここで、幾度も幾度も袖を振ってみる。
〈4380〉
 難波の港を漕ぎ出して顧みれば、神々しい生駒山に雲がたなびいている。

鑑賞

 下野国(栃木県)の防人の歌。作者は、4376が寒川郡(さむかわのこおり)の上丁、川上臣老(かわかみのおみおゆ)、4377が津守宿祢小黒栖(つもりのすくねおぐろす)。4378が都賀郡(つがのこおり)の上丁、中臣部足国(なかとみべのたるくに)。「都賀郡」は、栃木市・小山市・鹿沼市・日光市・壬生町・野木町などの一帯。4379が足利郡(あしかがのこおり)の上丁、大舎人部祢麻呂(おおとねりべのねまろ)。「足利郡」は、足利市の渡良瀬川以北の一帯。4380が梁田郡(やなだのこおり)の上丁、大田部三成(おおたべのみなり)。「梁田郡」は、足利市の渡良瀬川以南の一帯。下野国からの行程は、上り34日と定められていました。

 
4376の「知らずて」は、知らずして。「母父(あもしし)」は、オモチチの訛り。「言申さずて」は、暇乞いを申さずに。「悔しけ」は、クヤシキの訛り。防人の徴発は突然のことであり、何の準備もできないまま、急き立てられるように出発した状況が伝わります。とはいえ、この若者は、防人に徴兵されるという事態を理解せずに出立したのでしょうか、それとも所属の兵団から呼び出され、帰宅する暇も与えられずに出立させられたのでしょうか。本当にこんなことがあったのかと疑われるような1首です。

 
4377の「刀自」は主婦の意で、ここは女主人である母に対する尊称。「玉にもがもや」の「もが」は願望で、「も・や」は感動の助詞。「みづら」は、17~18歳の男子の髪型の一種で、頭髪を中央より左右に分け、耳の上で輪にして束ねたもの。白鳳時代に描かれたとされる有名な聖徳太子像には、太子の左右に、御子の山背大兄王と御弟の殖栗王が小さく描かれていますが、この2皇子の髪型がこれに当たるのではないかといわれます。唐制を模して冠や頭巾の類をかぶるようになってからは廃れたようです。「合へ」は、交えて。「巻かまく」は「巻かむ」のク語法で、名詞形。この時代、玉は護身の威力があるとの信仰があったといいます。

 
4378の「月日やは」の「月日(つくひ)」は、ツキヒの訛り。「や」は、「夜」の意とする説と、反語の助詞「や」とする説があります。後者によれば、月日は(止まることなく)過ぎ去ってしまうけれども、というニュアンスになります。「過ぐ」は、スギの訛り。「母父(あもしし)」は、オモチチの訛り。「玉の姿は」は、玉のような姿は、で、両親を磨き上げられた宝石のようにかけがえのないものとして尊んでの表現。「忘れせなふも」の「なふ」は、東国語独特の打消(~しまい、~しない)の助動詞。

 
4379の「寄そる浜辺に」の「寄そる」は、ヨスルの訛り。「浜辺」は、任地である筑紫の浜辺のことを言っているとされます。「に」は、目指す目的地を指したもの。「いともすべなみ」は、何とも方法がないので。「八度袖振る」の「八」は数が多いことの象徴。何度も何度も、夢中で袖を振る動作です。

 
4380の「難波津(なにはと)」は、ナニハツの訛り。一方、「難波門」の字を宛て、難波の海門と解する説もあります。「神さぶる」は、神々しい。古くから信仰の対象であった山への敬畏を表す枕詞的な表現です。「生駒高嶺」は、難波津の東方にそびえる生駒山(標高642m)。難波から東を望むと最も目立つ山であり、故郷(東国)へと続く道の象徴でもあります。「雲ぞたなびく」は、強調の「ぞ」+「たなびく」の連体形による係り結び。筑紫に向けての出航を待つ間、遊覧か何かで海に漕ぎ出した折の歌と見られます。
 

「軍防令」による兵役義務

 大宝令における「軍防令」の規定では、正丁(21歳から60歳までの男子)は3人に1人の割合で兵役につくものと定められていました。兵士たちは各国に置かれた軍団に入り、その人員は普通1000人で、約1か月の訓練を受けました。租、庸、調、雑、徭などの課税のほかに、この兵役は農民にとって苦しいものでしたが、それでも、これは国元でのことであり、もっと辛い役割がありました。それは遠い都に遣られる衛士と、さらに遠方の九州につかわされる防人です。衛士は、天皇の護衛隊のことで、五衛府に属して宮門の整備や雑役に当り、任期は1年。防人の任期は3年でした。

 兵士の全員が衛士や防人になったわけではなく、中央政府から提供を命じられた国司が、正丁の中から該当者を選抜しました。ただ、任命の対象から外された者もあり、父子、兄弟の間から既に兵士が出ている者、父母が高齢だったり病気だったりした者のほか、その家に当該者以外の成年男子がいない場合などでした。また、3年という任期は、あくまで任地に着いてからの計算であり、出立して任地に着くまでの何か月かは含まれませんでした。

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古典に親しむ

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