| 訓読 |
4391
国々の社(やしろ)の神に幣(ぬさ)奉(まつ)り贖乞(あがこひ)すなむ妹(いも)が愛(かな)しさ
4392
天地(あめつし)のいづれの神を祈らばか愛(うつく)し母にまた言(こと)問はむ
4393
大君(おほきみ)の命(みこと)にされば父母(ちちはは)を斎瓮(いはひへ)と置きて参(ま)ゐ出(で)来(き)にしを
4394
大君(おほきみ)の命(みこと)畏(かしこ)み弓の共(みた)さ寝(ね)かわたらむ長けこの夜(よ)を
| 意味 |
〈4391〉
諸々の里の社の神々に幣を捧げて、私の旅の無事を祈っているだろう妻が愛しい。
〈4392〉
天の神、地の神のどの神様にお祈りしたら、愛しい母とまた話ができるようになるのだろうか。
〈4393〉
大君の恐れ多いご命令であるので、父上、母上を斎瓮とともに後に残して、家を出て来たことだ。
〈4394〉
大君のご命令の恐れ多いものと承り、弓を抱えたまま寝ることになるのだろうか。長いこの夜を。
| 鑑賞 |
下総国(千葉県北部と茨城県南西部)の防人の歌。4391が結城郡(ゆうきのこおり)の忍海部五百麻呂(おしぬみべのいおまろ)。「結城郡」は、結城市と八千代町の地。4392が埴生郡(はにゅうのこおり)の大伴部麻与佐(おおともべのまよさ)。「埴生郡」は、成田市のあたり。4393が結城郡の雀部広島(さざきべのひろしま)。4394が相馬郡(そうまのこおり)の大伴部子羊(おおともべのこひつじ)。「相馬郡」は、取手市、守谷市、利根町、千葉県我孫子市などの一帯。
4391の「国々の社の神」の「国々」は、諸々の里の意。下の句にある動作の主体が「妹」であるので、広く諸国をいうのではなく、狭い範囲の地域、すなわち近隣のあらゆる神々を指しているものと見られます。「幣」は、神に祈る際に手向けとして捧げるもの。旅に関する歌では、旅先で自ら旅中の安全を祈る場合に捧げることが多くあり、残って旅人の帰りを待つ者が捧げる場合もあります。「贖乞すなむ」の原文は「阿加古比須奈牟」で語義未詳ながら、①「贖乞」だとして、災難を逃れるために物を捧げて祈る意、②「我が恋」だとして、私が恋しく思っている意、と解する説があります。ここは①に従っています。「すなむ」は「すらむ」の訛りで、するであろう。「妹が愛しさ」は、妻がいとおしいことよ。「かなし」は「悲しい」ではなく、切なくなるほどの深い愛情を意味します。
4392の「天地(あめつし)」は、アメツチの訛り。「いづれの神を」は、数多い天ツ神・国ツ神のうちのどの神に。天ツ神は、主として天孫降臨の際に高天原から地上に降ったという諸神とその子孫の神々。国ツ神は土着の神。「祈らばか」は、お祈りしたならば~だろうか。「愛し」は、親から子、男性から女性に対するように、一般に弱小の者に対するいたわりの気持ちを表す語ですが、ここは残される母への憐憫の情で言っているのでしょう。「また言問はむ」は、もう一度言葉を交わす。つまり再会して話をすることを意味します。窪田空穂はこの歌について、「防人として旅をしながら、母を思っての心であろう。この防人は、生きて還れるかどうかわからないような気がしているが、自身のことは思わず、また母に逢いたいという一念のみになっているのである。『天地のいづれの神を祈らばか』の迷いは、最も祈りのしるしのあらたかな神に祈るのでなければ、そのことが叶わない気がするからのことで、母を思うあまりの迷いである。純情きわまる歌である」と評しています。
4393「命にされば」は「命にしあれば」の約。(天皇の)命令であるので。「斎瓮と置きて」は、斎瓮とともに残して。「斎瓮」は、神事の際に酒や供物を捧げるための、清められた神聖な土器(瓶)。ここは、両親を神のように尊び、また、自分が不在の間も神の守護があるようにと祈りを込めて、神聖な場所へ預けるような気持ちで残してきた、という比喩です。「参ゐ出来にしを」は、家を出てきたことだ。「参ゐ出」は、公的な場所へ出る際の謙譲表現です。
4394の「大君の命畏み」は、防人歌の定型。個人の感情を押し殺して国家の義務に従う決意を表します。「弓のみた」の「みた」は、ムタの訛りで、弓とともに。「さ寝か渡らむ」の「さ」は、接頭語。「さ寝」は、男女の共寝に用いることが多い語です。「さ寝かわたらむ」の「か~む」は、中央語の「や~む」と同じく、こうも~することか、という気持ちの表現。「長け」は、ナガキの訛り。家で抱いていた妻と別れ、これからは弓を抱いて寝るのかと嘆いています。故郷を出発したのは2月、東山道を行く冬の夜はさぞ寒かったことでしょう。
なお、防人歌の中には、4394の歌のように「大君の命畏み・・・」と詠んだ歌が数首あります。こうした語を用いているのは一般の防人歌とは異質であり、日本史学者の北山茂夫によれば、この共通の慣用句は「地方民自身の発想ではなく、中央官人の天皇観を端的に示すものとして、万葉中期には使われていた。それが、国司の論告に地方の豪族・農民のあいだにもちこまれ、兵士役を通じて受容されたのであろう」と述べています。さらに文学者の土橋寛は、このように言っています。「『大君の命令がおそれ多いので』どうなのかといえば、同じように妻子・父母と別れてきたのだと嘆くのである。だから、(たとえば4373の歌「今日よりは顧みなくて・・・」)の鉄壁のような兵士の姿は、それを裏返しに言ったまでで、じつは、なみなみならぬ郷愁に根ざしたものなのである」
なお、4384からこの4394までの11首が下総国の防人の歌であり、この歌の後ろに「二月の十六日、下総国の防人部領使(さきもりのことりづかひ)少目(せうさくわん)従七位下県犬養宿禰浄人(あがたのいぬかひのすくねきよひと)が進(たてまつ)る歌の数二十二首。ただし拙劣(せつれつ)の歌は取り載せず」との記載があります。県犬養宿禰浄人は、伝未詳。

防人設置の経緯
斉明天皇の治世6年(660年)7月、朝鮮半島に鼎立していた3つの国の一つ、百済が、唐の加勢を得た新羅によって滅ぼされました。といっても百済の息の根が完全にとまったわけではなく、国王や高官たちが捕えられて唐に送られた後も、遺臣たちが次々に挙兵して国勢を挽回しようとしました。中でも有力だったのが、鬼室福信(きしつふくしん)という将軍です。
9月はじめ、来朝した百済の官人と僧によってこのことが伝えられると、日本の朝廷は愕然としました。百済と日本のつながりは強く、親善関係を持っていた国です。ショックのおさまらない10月、鬼室福信からの使者がやって来て、日本の救援を乞います。福信は、30年近く人質として日本に預けてある王子の豊璋(ほうしょう)を新国王としたいから返してほしい、それといっしょに援軍を、というものでした。
朝議は紛糾し、結局、当時の政治を取りし切っていた皇太子・中大兄皇子の決断によって、百済救援と決まりました。68歳の老女帝の乗った軍船を中心に、皇族、高官の乗る船団が難波の津(大阪湾)を出たのは、斉明7年(661年)正月6日。3月25日に那(な)の大津(博多港)に入りましたが、7月、暑さと疲労のため、老女帝が亡くなります。皇太子には、母の死を悼むゆとりもありません。即位もせず、皇太子のままで国政を司ることになります(即位は668年)。
遠征の先発部隊5千余人が、豊璋を伴い出発したのは翌年(662年)正月のこと。さらに1年後の3月、救援第2軍2万7千人が半島に向かい、日本としては、まさに国運をかけての大軍事行動でした。そして、8月27、8両日にわたる白村江(錦江の古名)の決戦で、日本・百済の連合軍は、唐・新羅連合軍に惨敗し、百済はついに滅んだのでした。
事態はこれで終わりではありませんでした。勢いに乗じた唐、新羅が、いつ攻め寄せてくるか分からない緊急事態となり、その備えとして朝廷がまずとった防衛策は、壱岐・対馬・筑紫に防人を置くという制度であり、同時に烽(とぶひ:急を伝えるための狼煙)の制度であり、大宰府防衛のための水城(みづき)の築造でした。
防人は、正式には「ぼうにん」と読み、唐の制度にならったものです。「さきもり」は日本読みで、前守、崎守、岬守などの字があてられました。辺境、特に九州北部を中心とした西海の辺境を守る軍隊という意味です。防人の制度は、実はこの時より18年前の、大化2年(646年)に出された「改新の詔」のなかに「初めて京師(みさと)を修め、畿内(うちつのくに)の国司、郡司、関塞(せきそこ)、斥候(やかた)、防人、駅馬(はゆま)、伝馬(つたはりうま)を置く」と出てきますが、この時は文書だけのきまりで、実際には、この天智3年(664年)に編成されたものであろうといわれます。
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