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巻第20(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第20-4404~4407

訓読

4404
難波道(なにはぢ)を行きて来(く)までと我妹子(わぎもこ)が付けし紐(ひも)が緒(を)絶えにけるかも
4405
我(わ)が妹子(いもこ)が偲(しぬ)ひにせよと付(つ)けし紐(ひも)糸になるとも我(わ)は解(と)かじとよ
4406
我(わ)が家(いは)ろに行かも人もが草枕(くさまくら)旅は苦しと告(つ)げ遣(や)らまくも
4407
ひな曇(くも)り碓氷(うすひ)の坂を越えしだに妹(いも)が恋しく忘らえぬかも

意味

〈4404〉
 難波道を行って帰ってくるまではと、妻が縫い付けてくれた着物の紐が切れてしまった。
〈4405〉
 わが妻が、私を偲ぶよすがにして下さいと付けてくれた着物の紐、たとえ糸のように細くなろうとも、解いたりなんかしないよ。
〈4406〉
 我が家のある故郷に行く人がいたらよいのに。旅は苦しくてならないと家の人に告げてもらうのに。
〈4407〉
 日が曇って薄日がさすという碓氷の坂、まだこの坂を越えただけなのに、無性に妻が恋しくて忘れられない。

鑑賞

 上野国(群馬県のほぼ全域)の防人の歌。作者は、4404が助丁の上毛野牛甘(かみつけののうしかい)、4405が朝倉益人(あさくらますひと)、4406が大伴部節麻呂(おおともべのふしまろ)、4407が他田部子磐前(おさだべのこいわさき)。上野国からの行程は、上り29日と定められていました。

 
4404の「難波道を行きて来まで」は、難波へ行く道を通って、またここへ帰って来るまで。そのように作者の妻が言ったのは、夫の旅をそれほどの旅とは思わず、難波と筑紫の区別や距離関係も分からなかったのかもしれません。「紐が緒」の「紐」は、衣の紐。「緒」は、紐と同意語で、語感を強めるために重ねたもの。「絶えにけるかも」は、切れてしまったなあ。上代には紐に対する強い信仰があったため、切れないだろうと思っていた衣の上紐が切れてしまい、何か不吉なことが起きなければいいが、と心配している歌です。難波は、陸路を離れ、不慣れな海路へと踏み出す出発点です。その目前で紐が切れたことは、これからの航海の安全に対する強い不安を掻き立てました。

 
4405の「我が妹子」は「わぎもこ」の約音になる前の原形で、他には用例のないもの。「偲ひにせよと」の「偲ひ」は、見て相手を偲ぶよすがとなる品。「思い出のよすがにしてください」「私だと思って大切にしてください」という妻の言葉。「解かじとよ」の「じ」は、意志のこもる打消の助動詞。「とよ」は、~ということだよ、~と思っているよ、の意。文末に用い強調を表す連語で、中古以降に多くの例があります。旅の途上、衣の紐によって妻を思い出している歌で、妻が紐を結ぶのは、その紐に自分の霊を結び込める呪術であったため、紐を解かないことで、妻の霊を我が身より離すまいと言っています。「糸になる」という表現は、時間の経過を暗示しています。防人の任期は長く、旅は過酷です。紐がボロボロになるほどの長い年月が過ぎても、自分は妻との約束を破らない、他の女性と紐を解き合う(共寝する)ことはないという、夫としての潔癖なまでの誠実さが強調されています。

 
4406の「家(いは)」は、イヘの訛り。「ろ」は、親愛の情を込める接尾語。「行かも人もが」の「行かも」は、行カムの訛り。「もが」は、実現しそうにない願望を表す終助詞。行く人がいたらよいのに。「草枕」は「旅」の枕詞。「苦しと告げ遣らまくも」の「遣らまく」は「遣らむ」のク語法で名詞形。「も」は、詠嘆の終助詞。告げてやりたいものだ。防人の旅路において、すれ違う旅人が自分の故郷へ向かっている可能性は極めて低いはずです。それでも「誰かいないか」と周囲を見渡してしまうほど、作者は追い詰められています。「もが」という言葉には、叶わぬ願いだと知りつつもすがらずにいられない、極限の孤独が滲んでいます。また、普通、旅先からの便りといえば「私は元気だ」と安心させたいものですが、この歌では「苦し」と伝えることを願っています。これは単なる泣き言ではなく、この苦しさを分かち合えるのは、故郷の家族しかいないという深い信頼の裏返しでもあります。自分の今の苦悩を知っていてほしい、という剥き出しの承認欲求が、防人歌らしい人間味を感じさせます。

 
4407の「ひな曇り」は、曇りの日の薄日の意味で、「な」は「の」の意のもの。薄日の同音で「碓氷」に掛けた枕詞。「碓氷の坂」は、上野と信濃の国境の碓氷峠。その険しい山道は、東山道随一の難所とされており、ここを越えると、いよいよ故郷を離れるという心理的な境界線でもありました。当時の難波行きは、上野からは碓氷峠を越して信濃に入り、それから美濃へ出るルートをとったようです。「越えしだに」は、越える時だけでも。「妹が恋しく」の「恋ひしく」は「恋ひき」のク語法で名詞形として、出発時に妻が恋しがっていたことと解する説もあります。「忘らえぬかも」は、忘れられないことだなあ。自発の助動詞「らる」の未然形「らえ」+打消しの助動詞「ず」の連体形「ぬ」+詠嘆の終助詞「かも」。国境を越え、にわかに旅の感慨を深めています。なお、碓氷峠について、現在その峠跡と伝えられている標高956mの峠道は後世の道筋と言われ、またその南にある入山峠に擬する説もあって、当時の詳細は明らかではありません。

 4404からこの4407までの4首が上野国の防人の歌であり、この歌の後ろに「二月の二十三日、上野国の防人部領使(さきもりのことりづかひ)大目(だいさくわん)正六位下
上毛野君駿河(かみつけののきみするが)が進(たてまつ)る歌の数十二首。ただし拙劣(せつれつ)の歌は取り載せず」との記載があります。上毛野君駿河は伝未詳ですが、「上毛野君」は、もと上野国を代表する豪族でした。
 

 

防人制度の変遷

 防人制度は、大化2年(646年の)の改新の詔にその設置の記載が見えますが、663年の白村江の戦いに敗れたことにより、九州北部の防衛強化のため本格的に整備されたと考えられています。

 その後、天平2年(730年)に防人は一時停止され、737年に筑紫にいた東国の防人を郷里に帰すことが決まり、翌年に約2,000人の防人たちが東国へ戻っています。しかし、巻第20に収集された防人歌は755年のものであるので、これ以前に東国からの徴発が復活していたとみられています。

 防人制度に対する東国の人々の不満はしだいに高まり、天平宝字元年(757年)に東国からの徴発は廃止され、九州からの徴発に変更されました。その後何度かの改廃を経て、防人の徴発は行われなくなり、10世紀には実質的に消滅しました。

 東国人にとって、防人歌に詠われたような九州に旅立つ悲しい別れはなくなったものの、8世紀後半になると、蝦夷との戦乱が激化したため東国から大規模な兵役が強いられるようになり、その負担は9世紀初めまで続きました。防人への徴発がなくなった代わりに、今度は東北制圧のための重い兵役や軍事の負担がのしかかってきたのです。 

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