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巻第20(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第20-4421~4424

訓読

4421
我が行きの息づくしかば足柄(あしがら)の峰(みね)延(は)ほ雲を見とと偲(しの)はね
4422
我(わ)が背(せ)なを筑紫(つくし)へ遣(や)りて愛(うつく)しみ帯(おび)は解かななあやにかも寝(ね)も
4423
足柄(あしがら)の御坂(みさか)に立(た)して袖(そで)振らば家(いは)なる妹(いも)はさやに見もかも
4424
色深く背なが衣(ころも)は染めましを御坂(みさか)賜(たば)らばまさやかに見む

意味

〈4421〉
 おれが旅に出て嘆かわしくなったら、足柄山の峰を這う雲を見ながら、このおれを偲んでおくれ。
〈4422〉
 うちの人を筑紫へ送り出してしまったら、愛しさに帯は解かずに、心を痛めながら一人寝ることになるのでしょうか。
〈4423〉
 足柄山の足柄峠に立って袖を振ったならば、家の妻がはっきりと見るだろうか。
〈4424〉
 夫の着物を濃い色に染めればよかった。そうしたら足柄峠を通していただくときに、はっきりと見届けられたでしょうに。

鑑賞

 武蔵の国(埼玉県全域、東京都全域、および神奈川県の川崎市と横浜市の一部)の防人の歌。作者は、4421が都筑郡(つつくのこおり)の上丁、服部於由(はとりべのおゆ)。4422が妻の服部呰女(はとりべのあざめ)。「都筑郡」は、横浜市都筑区、旭区、緑区、青葉区などの一帯。4423が埼玉郡(さきたまのこおり)の上丁、藤原部等母麻呂(ふじはらべのともまろ)の歌。4424がその妻の歌。「埼玉郡」は、埼玉県東部、八潮市から行田市あたりまでの広い地域。

 
4421の「我が行きの」は、私が旅に出て。「息づくし」は、息ヅカシの訛りで、嘆かわしの意の形容詞。「かば」は、ケバの訛りで、仮定。「足柄の峰」は、神奈川県と静岡県の境にある足柄山。東国の防人たちが故郷を離れる際、最初に出会う難所であり、心理的な境界線でした。ただ、作者夫婦の住む都筑郡(横浜市の現在の保土ヶ谷・旭・緑の各区周辺)から足柄山は見えないため、秦野市辺りの大山山麓にある山を漠然と指して言ったのだろうとされます。「延ほ雲を」の「延ほ」は、延フの訛り。低く長くたなびいている雲を。「見とと」は、見ツツの訛り。旅行く自分を案じるなら雲を見て自分を思えという歌は他にも何首かあり、そうした信仰に基づいています。

 
4422の「背な」は「背(夫)」の方言。「愛しみ」は「愛し」のミ語法。「愛し」は、親から子、男性から女性に対するように、一般に弱小の者に対するいたわりの気持ちを表す語ですが、ここでは妻から夫に対して言っており、例の少ないものです。「解かなな」の「なな」は、「な(未然形)+な(終助詞)」で、強い拒絶や禁止の意。決して解くまい、という固い決意。「あやに」は、多くはカシコシ・カナシ・タフトシなどの形容詞を修飾する副詞で、口では言い表せないほど、の意ですが、ここのように動詞を修飾する場合は、心を痛めて、懇ろに、のような意味になるようです。「かも」は、疑問。「寝も」は、寝ムの訛り。

 
4423の「足柄の御坂」は、相模国から駿河国へ越える足柄峠。急峻な坂として恐れられ、そのため神のいます坂とされたようです。この時代、東国から西の方に行くには、東山道なら碓氷の坂(碓氷峠)、東海道なら足柄の坂(足柄峠)のいずれかを越えて行かねばなりませんでした。箱根路が開かれるのは後の時代のことです。「立して」は、立チテの訛り。「家(いは)」は、イヘの訛り。「さやに」は、明瞭に。「見も」は、見ムの訛り。袖を振るのは、衣服の袖には魂が宿っていると信じられており、離れた者との間で相手の魂を呼び招く呪術的行為でした。

 
4424の「色深く」は、色を濃く。染料を何度も重ねて、遠くからでも目立つほど濃い色にすること。「背な」は、女性が夫や恋人、兄弟を親しんで呼ぶ言葉。ここでは夫。「染めましを」は、染めればよかったのに。「まし」は反実仮想や希望、後悔を含む助動詞。「御坂賜らば」の「賜らば」は「賜る(いただく)」の仮定形で、御坂の神がそこを越えることをお許しくださったならば。「まさやかに見む」の「ま」は接頭語で、はっきりと見えるでしょう。

 
窪田空穂は、この夫婦の贈答について、「夫が『さやに見もかも』といったのに対し、妻は『まさやかに見む』と、夫の歌に即していっている、京風のものである。夫は情熱そのままに、『袖振らば』といっているが、妻は知性的に、『色深く染めましを』と条件をつけて、そうしてあったならばと、その事の不可能をいっている。また夫は『御坂に立して』と、これまた事ともなくいっているのに、妻は『御坂たばらば』と、信仰を主として、仮定の形をもっていっている。男女の性別をはっきりとあらわしている歌で、どちらも相応の教養のあることを思わせる歌である。防人夫婦の歌としては、その教養の点で珍しい歌である」と述べています。

 なお、武蔵国の防人の歌12首のうち、4413・4416・4417・4420・4422・4424の6首が、防人の妻の歌とされています。女性ならではの立場らしく、日常生活の切り取り方に一層の細やかさがあり、優れた歌が多くなっています。ただ、天平勝宝7年(755年)に収集された防人歌のなかで、防人本人以外の歌が載っている例は珍しく、他国の歌では、上総国防人の父が詠んだとされる1首(4347)が見られるのみです。また、武蔵国の防人歌の全体に特徴的なのが、夫婦の別れを主題に歌ったものばかりで、他に多くある親子の歌が全く見られないことです。武蔵国のみ、進上の際にあえてそのような歌や妻の歌を集めるよう指示があったのか、あるいは、武蔵国の防人は夫が防人に徴発されるとき、妻も足柄山の御坂まで同道できる風習があったようであり、その影響ではないかとする見方があります。

 4413から4424までの12首が武蔵国の防人の歌であり、この歌の後ろに「二月の二十九日、武蔵国の部領防人使(さきもりのことりづかひ)掾(じよう)正六位上
安曇宿禰三国(あづみのすくねみくに)が進(たてまつ)る歌の数二十首。ただし拙劣(せつれつ)の歌は取り載せず」との記載があります。安曇宿禰三国は、天平宝字8年(764年)、従五位下。

 以上で、天平勝宝7年(755年)に交替した防人の歌は終わっています。集められた歌は、故郷を出てから難波に着き、筑紫に向けて出航するまでの間に詠まれたものばかりで、現地で任に就いてからの歌は1首もありません。その後の彼らの境遇がどのようなものであったかは想像するよりほかないのですが、ただ、軍防令に「凡そ防人、防に在らば十日に一日の休暇放せ、病せらば皆医薬給え、火内の一人を遣りて、専ら静養をせしめよ」との規定も見え、少しばかりほっとさせられるところです。なお、これ以降4436までは「昔年の防人の歌」とあり、類歌を集めたものとなっています。

 

万葉時代の幹線道路

 大化改新の詔によって、畿内および山陽道で駅路や駅家(うまや)が整備され、680年までには、筑紫の大宰府から関東に至るまでの広範囲にわたって、幹線道路が敷設されました。『大宝令』には、大路として山陽道、中路として東海道、東山道、その他小路が、また『延喜式』には、七道駅路、すなわち、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西国道が記されています。天平18年(746年)に大伴家持が越中国守として、現在の富山県高岡市に赴任していることから、この頃までには、北陸道も整備されていたとみられます。 

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。