| 訓読 |
4439
松が枝(え)の土に着くまで降る雪を見ずてや妹(いも)が隠(こも)り居(を)るらむ
| 意味 |
〈4439〉
松の枝が重みで地に着くほどに降り積もる雪、こんなすばらしい雪を見ることなく、あなたは部屋に閉じ籠っておられるのでしょうか。
| 鑑賞 |
題詞に「冬の日に、靫負(ゆけひ)の御井(みゐ)に幸(いでま)しし時、内命婦(うちのひめとね)石川朝臣の、詔に応(こた)へて雪を賦する歌」とあります。「靫負の御井」は、平城宮内の衛門府の古名。衛門府は、宮中の諸門を警備し、出入・礼儀を取り締まり、定時に巡検することをつかさどる役所。内命婦石川朝臣は、大伴安麻呂の妻になった石川郎女のことで、坂上郎女・大伴稲公の母となる人です。「内命婦」は、自身が五位以上の女官を指します。なお、左注に次のような補足説明があります。―― そのころ、水主内親王(もひとりのひめひこ:天智天皇の皇女)は睡眠も食事もろくにできない状態で、幾日も参内していなかった。そこで、この日、太上天皇(元正上皇)がお側の女官たちに命じて、「水主内親王に贈るために雪を詠んだ歌を奉りなさい」と仰せられた。しかし、他の命婦らは歌を作ることができず、ひとり石川命婦のみ歌を作って献上した。「松が枝の土に着くまで」は、雪の重みで松の枝がたわむさま。「妹」は、水主内親王のことで、元正天皇の身になって言っています。
「松が枝」の「が」は格助詞で「松の枝」の意。他に見られる「母が手」「梅が香」「誰が袖」「汝が名」などと同じ。「松が枝の土に着くまで」は、松の枝が雪の重みで地面につくほどに。「見ずてや」の「見ずて」は、見ずに。「や」は、疑問。「妹」は女性に対しての代名詞で、ここは水主内親王のこと。なお、この歌は、上総国の大掾(だいじょう)正六位上、大原真人今城(おおはらのまひといまき)が伝誦したものだとの注記があります。 歌を詠んだ内命婦石川郎女は、蘇我氏の血を引く尊貴な家柄の出身であるばかりでなく、ここにある通り、宮廷にその才も謳われた女性です。大伴安麻呂に求婚されて生まれた娘の坂上郎女は、この聡明な母のもと、幼い頃から十全の教育が施されて、どこに出しても遜色にないように仕立てられたのでしょう。
この歌が詠まれた年月は、「冬の日」とだけあって不明ながら、水主内親王は天平9年(737年)秋に薨じているので、8年12月以前のこととされます。水主内親王は天智天皇の皇女なので、仮に天智10年に生まれたとしても天平8年には66歳であり、当時57歳の元正天皇より年上で、父(草壁皇子)のいとこに当たります。霊亀元年(715年)四品であったことが知られ、天平9年に三品に進みました。内親王が所蔵していた多数の経巻は、薨去後に東大寺に施入され、写経のために利用されることが多く、その目録も作られていたことが正倉院文書によって知られます。

大伴家の人々
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