| 訓読 |
4455
あかねさす昼は田 賜(た)びてぬばたまの夜の暇(いとま)に摘(つ)める芹(せり)これ
4456
丈夫(ますらを)と思へるものを太刀(たち)佩(は)きてかにはの田居(たゐ)に芹ぞ摘みける
| 意味 |
〈4455〉
昼間は班田の仕事で忙しく、夜の暇(いとま)に摘んだのです、この芹(せり)は。
〈4456〉
立派な方だと思っていましたのに、腰に太刀を佩(は)いたまま、蟹(かに)のように田の中を這い廻って芹を摘んでおられたなんて。
| 鑑賞 |
天平元年(729年)、橘諸兄(たちばなのもろえ)がまだ葛城王(かづらきおう)と称していたころ、山城国の班田長官(このとき正四位下)に任ぜられて現地に赴いた時に作った歌です。「班田」は、班田収授法にもとづいて国家が農民に口分田を貸し出す仕事をいい、この時の「班田」は、官人総動員体制で行われた大事業で、過労自殺者も出るほどの激務だったといいます。そんな多忙のなか、諸兄は仕事を終えた夜になって、なんと、女性に贈るための芹(せり)をせっせと摘んだのです。
贈られた相手は元明天皇に仕えていた内命婦の薩妙観(さつのみょうかん)。「薩」は氏、「妙観」は尼としての名であり、帰化人の系統と見られています。養老7年(723年)従五位上、翌神亀元年に河上忌寸の姓を賜わり、天平9年(737年)正五位下を授けられた人。巻第20-4438にも歌があります。薩妙観は芹をもらってビックリ仰天しました。相手は何と天皇の血を引く貴族中の貴族です。そんな立派な人物が、田に入って四つん這いになって芹を摘んだとはにわかには信じられません。そこで4456の歌を詠んで贈りました。遊び半分?のエリート班田使に痛烈なパンチを食らわせた態の歌です。
4455の「あかねさす」は「昼」の枕詞。「田賜びて」は、田を諸氏に賜る政務を行って。天皇の命令を受けての代執行であることからの表現。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「夜の暇」は、夜遅くまで働いた後の夜中の小閑の意。4456の「丈夫」は、勇ましくて立派な男子。「かにはの田居」の「かには」は、現在の京都府木津川市山城町綺田(かばた)。「田居」は、田んぼ。「芹」は、春の七草の一つですが、『万葉集』に詠まれているのは、ここの2首のみです。
もっとも、王自身が田に入って芹を摘んだとは思えず、窪田空穂は、4455の歌に対して、「人に物を贈る時には、心をこめての物であることをいうのが礼で、これもそれである。昼は政務を行なって、夜の暇に採んだ物だというのは、無理な労苦をしての物だの意である」と述べ、4456の歌に対しては、「王の贈物の芹を感謝した心であるが、それをいうに素直にはいわず、皮肉を暗示する微笑を浮かべていっている歌である。王の『夜の暇に摘める』というのを、儀礼の語を承知して、底を割らない程度に割って、『大夫と思へるものを』と感動したごとくいい、『刀佩きて』と踏み込んだ言い方をしているのがすなわちそれである。この歌はそこをおもしろいとしたものであるが、命婦はこの時代からそうした意地悪さがあったのである」と述べています。

橘諸兄の略年譜
684年 美努王と橘三千代の間に生まれる
710年 無位から従五位下に
724年 聖武天皇が即位
従四位下に叙せられる
729年 藤原四兄弟の陰謀により、長屋王が自殺(長屋王の変)
736年 臣籍降下、橘諸兄と名乗る
737年 天然痘の流行で藤原四兄弟が死去
大納言に任ぜられる
738年 正三位、右大臣に任ぜられる
740年 藤原広嗣が政権を批判(藤原広嗣の乱)
諸兄の本拠地に近い恭仁京に遷都
743年 従一位、左大臣に任ぜられる
孝謙天皇が即位
藤原仲麻呂の発言力が増す
756年 辞職を願い出て致仕
757年 死去、享年74
子息の橘奈良麻呂が乱を起こし獄死
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班田収授法
律令制下、一定年齢に達した人民に口分田を分け与える法。中国の均田法にならったもので、大化の改新の詔で実施方針が示されました。6年ごとに班田を行い、6歳以上の良民の男子には2段(たん)、女子にはその3分の2、官戸・公奴婢 (くぬひ) は良民と同額、家人・私奴婢には良民の3分の1の口分田を与え、死亡すると次の班給のときに収公しました。この法は田地の集中を防ぎ、公民制を維持し、国家の租税収入確保を目的とするものでしたが、9世紀になると、戸籍をいつわったり、開墾による私有地が増えたりしたため、902年を最後として廃絶しました。
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