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巻第20(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第20-4486・4487

訓読

4486
天地(あめつち)を照らす日月(ひつき)の極みなくあるべきものを何をか思はむ
4487
いざ子ども狂業(たはわざ)なせそ天地(あめつち)の堅めし国ぞ大和島根は

意味

〈4486〉
 天地を照らす日月のように、天皇陛下のご治世は無窮であるのに、何を不足に思うことがあろうか。
〈4487〉
 さあ、お前たち、たわけたことをするではない。天地の神々が造り堅めた国であるぞ、この大和の国は。

鑑賞

 題詞に「天平宝字元年十一月十八日、内裏にて肆宴(とよのあかり)きこしめせる歌二首」とあり、橘奈良麻呂の変の後に内裏で催された宴で、皇太子の大炊王(おおいのおおきみ:後の淳仁天皇)と内相の藤原仲麻呂が奏上した歌が載っています。「天平宝字」の年号は、天平勝宝9年(757年)8月18日に改元したもので、宴が催されたこの日は、新嘗祭の日であっただろうとされます。

 
4486は、大炊王の歌。「照らす日月の」の「の」は、~のように、の意。「極みなくあるべきものを」は、天皇の御代は無限であるべきものなのに、の意。「何をか思はむ」は、何を不足に思おうか。「か」は、疑問の係助詞で、反語をなしているもの。王自身を主語として強く信念を述べている表現ですが、臣民も一人残らずこのようにあるべきだと言い聞かせるものになっています。

 
4487は、藤原仲麻呂の歌。「いざ子ども」は、年下や目下の者たちに親しく呼びかけるもので、他にも用例のある句ですが、ここは親愛の情というより、凄みをもって呼びかけた語調が感じられるものになっています。「狂業」は、たわけたこと、精神に異常を来した人のすること。橘奈良麻呂らが自分を抹殺し皇太子を除こうとした行動を言っています。「なせそ」は、禁止を表す終助詞「な」と、同じく禁止を表す終助詞「そ」が組み合わさった形。「天地の堅めし国ぞ」は、天地の神々の堅め成した国家であるぞ。「大和島根」は、大和国を海上から望んでの称であったのが、日本国の称となったもの。『続日本紀』には、孝謙天皇の7月の詔として「狂(たぶ)れ迷へる頑なる奴の心」「人の見咎むべき事わざなせそ」、すなわち、狂い迷う奈良麻呂らの心を悟して正そう、人が咎めるようなことをするな、という言葉が載っています。仲麻呂の歌の内容はこの詔と類似しており、居並ぶ廷臣らを恫喝、あたかも仲麻呂が天皇であるかのような歌い方になっています。

 なお、
大伴家持は、橘奈良麻呂の乱が終結したのちに、太政官の庶務を担当する右中弁となりました。それまでの兵部大輔を上回る官職であり、乱に参画しなかったことに対する仲麻呂の限定的な「評価」とみることができます。
 

大炊王

 大炊王は、舎人親王の第七皇子で、この時25歳。同じ年の4月に藤原仲麻呂の推挙によって立太子、翌年8月に即位し、淳仁天皇となります。天平宝字3年6月の詔で父舎人親王を追尊した折には、仲麻呂夫妻に対しても、朕が父母と思うと表明しています。しかし6年頃になって、孝謙上皇が道鏡を寵愛し始めたことを諌止し、そのため両者の関係が険悪となり、上皇は国家の大事と賞罰とを行使する権利を天皇から剥奪し自らが行うことを宣言しました。同8年、仲麻呂が上皇に対する謀反するに及んで、仲麻呂との関係が深かった天皇は廃され、淡路に護送幽閉されることとなります。天平神護元年(765年)10月、脱走を試みるも逮捕され、翌日に薨じました。公式には病死と伝えられていますが、実際には暗殺されたものと推定されています。享年33歳。

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藤原仲麻呂の略年譜

706年 藤原南家の始祖・藤原武智麻呂の次男として生まれる
734年 従五位下に叙せられ、官界でのキャリアを本格化させる
743年 従四位下に昇進し、参議となる
757年 橘奈良麻呂の変を鎮圧。紫微内相となり、政権の最高権力者となる
758年 孝謙天皇の譲位により大炊王(淳仁天皇)を擁立
    太保(右大臣)に任ぜられ、「恵美押勝」の姓を賜る
    唐風化政策を推進
760年 太師(太政大臣)に就任。強力な後ろ盾であった光明皇太后が崩御
762年 孝謙上皇と淳仁天皇の対立が表面化
    孝謙上皇が紫微中台(仲麻呂の機関)から人事権・大権を奪還
764年 権力を奪回するため軍事行動を起こすが失敗(藤原仲麻呂の乱)
    近江国で捕らえられ斬首される 

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。