| 訓読 |
4492
月(つき)数(よ)めばいまだ冬なりしかすがに霞(かすみ)たなびく春立ちぬとか
4493
初春(はつはる)の初子(はつね)の今日(けふ)の玉箒(たまばはき)手に取るからに揺(ゆ)らく玉の緒(を)
4494
水鳥(みづとり)の鴨(かも)の羽色(はいろ)の青馬(あをうま)を今日(けふ)見る人は限りなしといふ
4495
うち靡(なび)く春ともしるく鴬(うぐひす)は植木(うゑき)の木間(こま)を鳴き渡らなむ
| 意味 |
〈4492〉
暦の上ではまだ冬なのだが、そうはいっても霞がたなびき、やはり春がやってきたのだろうか。
〈4493〉
新春になって初めての子の日の今日、玉箒を手にとるとゆらゆらと揺らいで、音を立てる、この玉の緒が。
〈4494〉
水鳥である鴨の羽の色をした、めでたい青馬を今日見る人は、命に限りなしといいます。
〈4495〉
草木が一面になびく春が来たとはっきり分かるように、ウグイスが植木の木の間を鳴き渡っていってほしい。
| 鑑賞 |
大伴家持の歌。4492は、天平宝字元年12月23日、治部少輔(じぶのしょうほ:治部省の次席次官、従五位下相当)大原今城真人(おおはらのいまきまひと)の家で宴会をしたときの歌。12月23日は太陽暦で翌年の2月5日にあたり、ちょうど立春の日だったと見られています。「月数めば」は、月の数を数えること。ここは暦の上の月日を指折り数えて知ること。「いまだ冬なり」は、まだ冬であるということ。「しかすがに」は、そうはいうものの。「春立ちぬとか」の「とか」は、伝聞や不確かな事実を推量・確認する表現(〜ということか、〜だそうだなあ)。
4493は、天平宝字2年(758年)正月3日、孝謙天皇により、内裏の東屋の垣下に侍従・竪子・王臣らが召されて開かれた宴で、前もって作っていた歌。「初子」は、正月の最初の子の日。当時は十二支によって日を数えていたので、子の日はその年の最初の日として祝い事をする日でした。「玉箒」は、玉を飾った儀礼用のほうき。これに付けた玉を揺らすことで邪気を払うとされました。正倉院にこの折の玉箒が残されており、それには色とりどりの玻璃(ガラス)玉が付いているといいます。「手に取るからに」の「からに」は、するとすぐに。
4494は、同月7日の「白馬(あおうま)の節会」に用意した歌。「水鳥の」は「鴨」の枕詞。上2句が、水鳥の羽の色の意で「青」を導く序詞。家持はかつて笠女郎から「水鳥の鴨の羽色の春山の・・・」(巻第8-1451)という歌を贈られたことがあり、これが念頭にあったかどうか。「青馬」は、灰色がかった毛色の馬。当時の「青」は、黒と白の中間色を漠然と指していたらしく、緑、藍から灰色までをも含む色とされました。「限りなしといふ」は、寿命に限りがないということである、の意。
4495の「うち靡く」は「春」の枕詞。「うち」は、接頭語。「春ともしるく」の「しるく」は、はっきりと分かる、明白であるという意味で、(いかにも)春だと
はっきり分かるほどに。「鳴き渡らなむ」の「鳴き渡る」は、あちこちで鳴きながら飛び回る、あるいは鳴き続けるという意味。「なむ」は、他者への願望を表す終助詞。なお、4493~4495の歌はいずれも中途退出のため奏上されませんでした。

右中弁・大伴家持
家持は、4492の歌が詠まれたのと同じ年の6月に兵部少輔から同大輔に昇任したばかりでしたが、橘奈良麻呂の変が終結した後に、太政官の庶務を担当する右中弁(弁官局の配属)となりました。右中弁は正五位上相当の官位で、兵部大輔の官位相当を上回ります。この人事は、家持が橘奈良麻呂や大伴古麻呂らの策動に参画しなかったことに対する紫微内相(しびのないしょう)藤原仲麻呂による限定的な評価であったと見えます。このころの太政官の顔ぶれは、紫微内相の仲麻呂のほかは、中納言に藤原永手・石川年足、参議に文屋智努・巨勢堺麻呂・藤原八束・藤原清河・阿倍沙弥麻呂・紀飯麻呂らとなっていました。
家持は、旧友だった橘奈良麻呂や大伴一族の胡麻呂や池主のことを思うと、重く心が沈んだに違いありません。しかし、彼らの死を痛惜し、慎重さを欠いたことを残念に思いながらも、贖罪の心はなかったと見えます。自分の選んだ道を正しかったと信じていたのでしょう。
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白馬(あおうま)の節会
正月7日に宮中で行われていた重要な年中行事で、天皇が紫宸殿に出御し、左右の馬寮(めりょう)が牽いてきた白馬をご覧になった後、群臣に宴が振る舞われる重要な儀式でした。明治維新の廃止まで、代表的な「五節会」の一つとして重んじられていました。年の初めに青(白)い馬を見ると邪気が祓われ、無病息災で過ごせるとされる中国の故事に由来します。
「白馬」と書いて「あおうま」と読むのは、奈良時代から平安時代前期にかけては、青毛(黒っぽい毛色)や葦毛(あしげ)の馬を見ていました。のちに、日本では神聖視されていた「白い馬」が重んじられるようになり、文字は「白馬」と書きながら、読み方は古いまま「あおうま」と残ったとされています。また、古代の日本では、馬は神様の乗り物(神馬)として神社に奉納されていました。疫病が流行した際に宮中で「白馬の節会」を行って獣の病を鎮めたという故事が、現在の神社における「絵馬」の起源の一つとされています。
なお、現代でも、この宮中儀式に由来する神事が、京都の 上賀茂神社 (白馬奏覧神事)など全国のいくつかの神社で毎年1月7日に行われています。
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