| 訓読 |
4514
青海原(あをうなはら)風波(かぜなみ)靡(なび)き行くさ来(く)さ障(つつ)むことなく船は速けむ
| 意味 |
〈4514〉
青々とした海原は、風も波も穏やかで、行きも帰りもつつがなく船は速く進むでしょう。
| 鑑賞 |
大伴家持の歌。題詞に「(天平宝字2年)二月の十日に、内相が宅にして渤海大使(ぼっかいたいし)小野田守朝臣(をののたもりのあそみ)等を餞する宴の歌」とある1首です。「内相」は、紫微中台(しびちゅうだい:皇后宮職を改称した行政機関)の長官・藤原仲麻呂のこと。「渤海大使」は、渤海に派遣される大使で、渤海は7~10世紀初頭まで中国東北部、朝鮮半島北部の、ロシアの沿海地方にかけて存在した国。渤海への旅は越前から出航するのが普通でした。小野田守朝臣は、太宰少弐、遣新羅大使などを歴任した人。「風波靡き」は、風も波も穏やかで。「行くさ来さ」の「さ」は、~する時の意の接尾語で、行く時も帰りの時も。「障むことなく」は、つつがなく、障害がなく。言霊信仰から祝詞の言葉を用いて送ろうとした歌ですが、左注には「未だ詠まず」とあり、宴席では披露しなかったと見えます。
仲麻呂は、渤海に対して関心を示し、政治経済文化などさまざまな面で相互交流を盛んにし、かたがた国際情勢についての情報を得ようとしていたとされます。渤海も、唐とその属国である新羅との間に挟まれているという地理的条件のせいもあって、日本に対して連繋を求め、これに答えて貿易を中心に交流を深めました。神亀4年(727年)以降、奈良時代を通じて12回渤海国使が来朝し、日本もたびたび遣渤海使を送っています。

渤海国について
渤海国は、698年、靺鞨族(まっかつぞく:ツングース系の農耕漁労民族)の大祚栄(だいそえい)が旧高句麗領を中心に建国し、当初は震(しん:振)国と称しましたが、713年に唐から「渤海郡王」に封じられてから渤海と呼ばれました。
最盛期には、現在の中国東北部、ロシア沿海州、朝鮮半島北部を領域とし、中国の歴史書『新唐書』渤海伝に「海東の盛国」と讃えられました。日本との関係では、奈良時代に限っても、渤海国使(渤海→日本)12回、遣渤海使(日本→渤海)9回に及び、渤海から日本へは動物の毛皮(貂、虎、羆、豹)・人参・蜜などがもたらされ、日本から渤海へは絹・糸・綿・黄金・水晶・漆・海石榴(つばき)油・水晶念珠・扇などが輸出されました。渤海の都の上京竜泉府(東京城)も日本の平城京と同じく長安城を模したもので、その故地からは和同開珎などが出土しています。
その後、武王、文王と3代にわたって安定しましたが次第に内紛が多くなり、926年に耶律阿保機の率いる契丹に滅ぼされました。渤海の遺民は南に逃れ、すでに918年に朝鮮北部に自立していた王建の建てた高麗の保護を求め亡命しました。王建は渤海の王子大光顕をはじめとする遺民を優遇し、その国づくりに重用しました。
〈年譜〉
698年 大祚栄が東牟山(とうむざん)を拠点に建国(初代王・高王)
713年 唐の玄宗より「渤海郡王」に冊封され、正式に「渤海国」を称する
727年 日本へ最初の使者(渤海使・高仁義)を派遣し、国交樹立
737年 第3代王・大欽茂(文王)即位。首都を上京竜泉府へ遷す
752年 日本の遣渤海使(小野田守ら)が渤海を初訪問。以後、活発な往来が続く
825年 第10代王・大仁秀が即位。版図を最大に広げ最盛期を迎える
926年 契丹(のちの遼)の耶律阿保機により滅ぼされる
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藤原仲麻呂の略年譜
706年 藤原南家の始祖・藤原武智麻呂の次男として生まれる
734年 従五位下に叙せられ、官界でのキャリアを本格化させる
743年 従四位下に昇進し、参議となる
757年 橘奈良麻呂の変を鎮圧。紫微内相となり、政権の最高権力者となる
758年 孝謙天皇の譲位により大炊王(淳仁天皇)を擁立
太保(右大臣)に任ぜられ、「恵美押勝」の姓を賜る
唐風化政策を推進
760年 太師(太政大臣)に就任。強力な後ろ盾であった光明皇太后が崩御
762年 孝謙上皇と淳仁天皇の対立が表面化
孝謙上皇が紫微中台(仲麻呂の機関)から人事権・大権を奪還
764年 権力を奪回するため軍事行動を起こすが失敗(藤原仲麻呂の乱)
近江国で捕らえられ斬首される
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