| 訓読 |
4515
秋風の末(すゑ)吹き靡(なび)く萩(はぎ)の花ともにかざさず相(あひ)か別れむ
| 意味 |
〈4515〉
秋の風が葉先をそよそよとなびかせている萩の花、その萩の花を共に髪にかざすことなく、お互いに別れ別れになるのだろうか。
| 鑑賞 |
大伴家持の歌。題詞に「治部少輔(じぶのしょうふ)大原今城真人(おおはらのいまきのまひと)の宅にして、因幡守(いなばのかみ)大伴宿禰家持を餞する宴の歌」とある1首です。天平宝字2年(758年)7月5日に、因幡守となって赴任する家持のために開いてくれた別れの宴で、家持が詠んだ歌です。「末吹き靡く」の「末」は、萩の枝の先。「相か別れむ」の「か」は疑問の係助詞で、「別れむ」はその結びの連体形。暦では秋になったものの、太陽暦では8月13日にあたり、萩の花はまだ咲いていません。その花を一緒に髪に挿して遊ぶ時を待たずに、別れて行くのだろうかと、いかにも侘しく都を発って行ったのでした。
天平勝宝3年(751年)に少納言となって越中から都に戻った家持は、その後、兵部少輔、兵部大輔、右中弁となり、宮廷内で順調に昇進を重ねていきましたが、天平字宝2年(758年)6月16日、突然、因幡守に任じられます。令の規定によると、地方の国は大国・上国・中国・下国に区分され、山陰道の因幡国は上国ではあるものの、その中では最低級であったと思われます。同じく上国の旧任地、越中国に比べてもその田積は3分の1以下に過ぎず、これが左遷人事であることは明らかでした。
天平勝宝9年(757年)1月に、家持の庇護者だった左大臣の橘諸兄が亡くなると、政治の実権は藤原仲麻呂に移りました。諸兄の子の橘奈良麻呂がクーデターを企てるものの失敗、家持はかろうじて連座を免れましたが、大伴池主や大伴古麻呂ら一族が処罰されました。大伴氏の勢力はひどく衰えることとなり、大伴宗家の長であることは、もとより仲麻呂派と相容れられるわけはなく、こうしたなかでの因幡国への赴任でした。むしろ当然の結果だったと言えましょう。その年の2月に公布された「集会における飲酒規制」の影響もあってか、この餞の宴に出席した人の名は記録されていません。あるいは、宴を開いてくれたのは大原今城一人だったかもしれず、その今城が歌を作っていないのも、この時の雰囲気を反映しているものといえます。
家持が都を離れて間もない8月1日に孝謙天皇が譲位、皇太子の大炊王(おおいのおおきみ)が即位して淳仁天皇となりました。25日、官名が唐風に改められ、太政大臣を大師(だいし)、左大臣を大傅(だいふ)、右大臣を大保(だいほ)、大納言を御史大夫(ぎょしだいふ)とし、八省も、中務省が信部省、式部省は文部省というふうにすべて改められました。紫微内相(しびのないしょう)藤原仲麻呂は大保に任ぜられ、特別に恵美押勝(えみのおしかつ)の名を賜りました。また執行部には、藤原永手、藤原清河、藤原御楯、阿倍沙弥麻呂など藤原北家の兄弟らが主要な役職を占めることとなりました。

国の等級
【PR】
鳥取市因幡万葉歴史館
(同館のホームページから引用)
鳥取市因幡万葉歴史館は、かつて因幡の国庁が置かれ、古代の遺跡が多く残る現鳥取市国府町にあります。天平宝字2(758)年、国守として赴任した万葉歌人大伴家持が万葉集最後を飾る歌を詠んだ地として知られています。
当館は、古代因幡の歴史と文化に触れ、万葉集に親しむことのできる施設として、1994(平成6)年にオープンしました。因幡地方独特の民俗芸能「麒麟獅子舞」「因幡の傘踊り」の紹介もしています。遺跡や遺物、再現模型、文字資料、映像などの展示を観覧し、また万葉植物が四季を彩る庭園を散策して、当時の暮らしや、自然にこころを寄せて歌を詠みあった人々に思いを馳せていただければ幸いです。

|
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |