平家物語~各段のあらすじ(つづき)
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1.生ずきの沙汰(いけずきのさた)
寿永3年(1184年)の新年を迎えたが、法皇も天皇も不自由な環境にあったため、正月の儀式も祝い事も行われなかった。屋島の平家方でも、儀式どころではなく、人々は都での華やかな暮らしを偲んでは、侘しい境遇に涙した。11日、義仲は平家追討のために西国に出発する旨を法皇に報告した。ところが13日、頼朝が数万の大軍を遣わし、既に京都近くまで迫っているとの急報が入り、驚いた義仲は、宇治・瀬田の橋の橋板を外し、軍勢を分けて迎え撃つ態勢に入った。瀬田の橋は敵の正面となるので、今井兼平に800余騎を分けて遣わした。
ところで、鎌倉の頼朝のもとに、「生食(いけずき)」「磨墨(するすみ)」という2頭の名馬があった。鎌倉を発つ時、梶原景季(かじわらのかげすえ)は「生食」を所望したが、頼朝は断り、代りに「磨墨」を与えた。ところが後日、佐々木高綱(ささきたかつな)が「生食」を所望したところ、頼朝はどういうわけかあっさりと与える。景季はそうとも知らず、「磨墨」に騎乗して満足げであったが、行軍の中にあの「生食」の姿を見つけた。自尊心を傷つけられた景季は、佐々木と刺し違えて死のうと待ち伏せる。近づいてきた高綱は、景季のただならぬ様子を見て、「そういえば梶原殿も生食を所望していたのだ」と思い出し、「盗んできた」と偽った。景季はその言葉を信じて、怒りを解いた。
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2.宇治川の先陣(うじがわのせんじん)
鎌倉の派遣軍の大将は、頼朝の二人の弟、範頼と義経であり、尾張国から総勢6万騎を二手に分けて都に進撃を開始した。大手(敵の正面を攻める軍勢)の範頼軍3万5千騎は東海道を西に走り、琵琶湖のほとりの瀬田に向かう。義経軍2万5千騎は搦手(からめて:敵の後ろ側を攻める軍勢)として範頼軍と別れて南下、宇治に回って南から京に入ろうとする。
正月21日、義経軍は宇治橋のほとりにたどり着いたが、渡河を阻止するため橋板が外されていた。雪解けで増水した激流に息をのむものの、血気にはやる武士たちは渡河を強行する。その時、佐々木高綱と梶原景季が先陣を競って駆け出す。景季が先行するが、高綱は、景季に馬の腹帯(はらおび)がゆるんでいると声を掛ける。景季が腹帯を締め直しているすきに、高綱は駆け抜け、対岸に渡って先陣の名乗りをあげた。義経軍は全員が渡河し、義仲軍はしばらく持ちこたえるものの、大軍の勢いに押されて散々に蹴散らされた。
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3.河原合戦(かわらかっせん)
義経軍は一気に京都に攻め入り、ただちに後白河法皇の御所を守護した。義仲を恐れていた法皇は義経を歓迎した。義仲は、法皇を奉じて西国に逃げて平家と合流しようと考えていたが、それも叶わず、追われる身となった。乳兄弟である今井兼平のことが気にかかり、瀬田に向かうが、賀茂の河原で範頼軍と遭遇、大部隊と交戦したあげく、ついに主従7騎となって、戦場を離脱した。
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4.木曽の最期(きそのさいご)
範頼軍と戦ってわずか50騎になるほどまでに討たれた今井兼平も、義仲を心配して都へ引き返すところだった。2人は運よく大津の打出の浜で出会い、再会を喜び合う。そして、散り散りになっていた味方の兵士300余騎が馳せ集まり、甲斐の一条忠頼(いちじょうのただより)の軍6千余騎と戦うが、とうとう残り5騎となってしまった。その中に、義仲の愛妾で女武者の巴(ともえ)がいたが、義仲は、戦場を離れ東国へ逃れるよう説得、巴は未練を残しながらも立ち去る。
しまいには今井と2人にだけになり、義仲は巴にも見せなかった弱音を吐く。「これまで何とも感じなかった鎧が、今日は重くなった」。今井はそれを受けて心強く励ます。義仲は今井と同じ所で死のうと、共に戦おうとするが、今井は再三引きとどめ、義仲に潔い死を遂げさせるため、自害の地に向かわせる。今井は必死に敵を食い止めようと戦う。しかし、義仲は今井が気にかかり、ふと振り返ったところを敵に射られてしまう。義仲の最期を知った今井は、「今は誰を守ろうとて戦をするのか」と、太刀をくわえて壮絶な自害を遂げる。
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5.樋口の斬られ(ひぐちのきられ)
義仲を裏切った行家を追って紀伊国に向かっていた今井兼平の兄、樋口兼光(ひぐちのかねみつ)は、都で合戦が行われていると聞いて、急ぎ都に引き返していたが、今井の残党と出会って義仲と弟の死を知った。後を追って討ち死にしようとしたが、縁故の深い人々に強く降伏を進められ、助命と引き換えに捕虜となった。しかし、公家や女房らの猛反対で死罪となり、義仲の首が都大路を引き回された日の翌日、斬首された。
平家は、去年の冬の頃から屋島を出て摂津国難波潟に渡り、福原の旧都を根拠地として住みに、西は一の谷(神戸市須磨区)に城塞を築き、東は生田森(いくたもり:神戸市中央区)を正面の木戸口(城門)として前方を守っていた。一の谷は、北は山、南は海、入口が狭くて奥行きは広い。岸は高く屏風を立てたようである。四国、九州14か国から呼び集めた兵10万余騎を従えて、源氏の攻撃に備えていた。高い場所に掲げられた多数の平家の赤旗が風に翻る様子は、まるで炎が燃えさかるようだった。
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6.六ケ度の軍(ろくかどのいくさ)
平家が福原に移ると、四国の武士らをはじめ、源氏方へ寝返る者が次々と現れた。平家の能登守教経(のりつね:清盛の弟の教盛の次男)は、6度の合戦で次々と彼らを粉砕したため、一門の公卿・殿上人が寄り集まって彼の功名を称えた。
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7.三草勢揃へ(みくさせいぞろえ)
こうした動きを受け、1月29日、義経・範頼は平家追討と三種神器の奪還の院宣を受ける。2月4日、福原では、入道相国の忌日というので追善供養が行われ、また官位昇進なども行われた。源氏の追討軍は同じ2月4日に攻撃を開始する予定だったが、故入道相国の命日と聞いて、仏事を終わらせてやるために7日に延期し、同日午前6時ころに一の谷の東西の木戸口(城門)で矢合わせすると定めた。ただ、4日は出陣には吉日というので、その日のうちに都を発ち、大手の範頼軍5万余騎は昆陽野(こやの:兵庫県伊丹市)に、搦手(からめて)の義経軍1万余騎は丹波路から後方に迂回し、播磨と丹波の境、三草山(みくさやま:丹波篠山市)の東麓に進出した。
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8.三草合戦(みくさかっせん)
平家軍も同じく、大将軍資盛(すけもり)、少将有盛(ありもり)以下3千騎で三草山の西麓に布陣していたが、敵の攻撃を明日と判断し、熟睡していた。この機を逃さず、義経軍は夜襲をかけた。民家や野山に火をつけて照明代わりにして進軍、平家軍は大混乱に陥り、資盛、有盛らは讃岐の屋島へ脱出した。
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9.老馬(ろうば)
宗盛は、進攻してくる義経軍に備え、平家の諸将に出陣を求めたが、みな義経を恐れて辞退する。そこでまた勇将教経(のりつね)に迎撃を依頼すると、教経は快く引き受けた。教経の兄通盛(みちもり)も同行し山の方面を固めることになった。通盛は陣屋に妻を呼び寄せて名残を惜しんでおり、教経は兄の情弱な態度を見て叱った。
一方、義経は、6日の明け方、軍を二手に分け、まず7千騎を一の谷の西口に向かわせ、自ら指揮する3千騎は一の谷を背後から突くため、鵯越(ひよどりごえ)に向かった。不案内な難路に、道を知るという老馬を先に立てて深山を進む。そこへ武蔵房弁慶(むさしぼうべんけい)が土地の猟師を連れてきた。義経が鵯越を駆け下りて一の谷を奇襲する作戦を話すと、猟師は無理だと答えた。しかし義経は、鹿が往来する路なら無理なはずはないと言って道案内を命じる。猟師は、18歳の息子を案内として義経につけた。その場で元服させ、鷲尾三郎義久(わしのおさぶろうよしひさ)と名乗らせた。この息子は、後に奥州で義経を守り、討ち死にする武士である。
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10.一二の懸(いちにのかけ)
一の谷の西口には、土肥実平(といさねひら)が7千騎で待機していた。そこに合流した熊谷直実(くまがえのなおざね)・直家(なおいえ)父子は、先陣の先駆けの功を平山季重(ひらやまのすえしげ)と争う。熊谷と平山は、ともに平家勢と激闘を繰り返し、先に攻めた熊谷は、平家が城の木戸を開かないので駆け入れず、後攻めの平山は木戸が開かれたので城内に駆け込んだ。そこで、どちらが一番乗りか、後で争うことになった。
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11.二度の懸(にどのかけ)
一の谷の東方、生田(いくた)の森に布陣する範頼軍5万騎の中に河原太郎・次郎兄弟がいた。一番乗りをしようとひそかに平家の城の中に入り、果敢に戦ったが、ともに討ち取られた。河原兄弟の奮戦に勢いづいた範頼軍は、一度に鬨の声をあげ、ただちに総攻撃を開始した。梶原景時(かじわらのかげとき)は5百余騎で敵陣に駆け入る。次男の平次景高(へいじかげたか)が先駆けしているので、使者を送ってたしなめたが、景高は先駆けをやめない。「平次を討たせるな」と、父景時、兄の源太景季(げんだかげすえ)、同じく三郎が続いた。さんざんに戦ったが、わずか50騎ほどにされ、退いてみると、長男の源太景季の姿がない。郎党が「深入りして、お討たれになったようです」というので、梶原は「源太を討たせて長生きしても仕方がない」と、敵陣に取って返す。知盛が大軍で梶原を取り囲むが、梶原はわが身を気にかけず、源太を捜す。源太は崖を背にして敵5人に囲まれていた。梶原は馬から跳び降りて加勢に加わり、敵を討ち取り、源太を自分の馬に乗せて戦場を出た。梶原の「二度の駆け」とはこのことである。
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12.坂落し(さかおとし)
一方、搦手(からめて)の総大将義経は、7日の早朝に一の谷の後ろ、鵯越(ひよどりごえ)に到着し、「馬どもは乗り手の一人ひとりが注意して下らせれば怪我をすることもあるまいぞ。それ落とせ、義経を手本にしろ」と、自ら先頭に立って駆け下りる。大軍もみな続いて下る。平家の陣営に降り立った義経軍は、すぐに屋形に火をかける。思いがけない方角からの奇襲に驚いた平家方は海に駆け出す。停泊していた船に逃れようとするが、大勢が溺れ死に、味方に斬られる者もあり、大混乱となった。戦に一度も負けたことのない教経(のりつね)は西に向かって落ちて行き、、明石から船に乗り、讃岐の屋島に渡った。
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13.盛俊最期(もりとしさいご)
越中前司(えっちゅうのぜんじ)盛俊(もりとし)は、代々平家に仕えてきた有力な家人で、一の谷の山の手の侍大将であった。敗色濃厚となったのを見て、討ち死にの覚悟を決めて敵を待ち受けた。そこへ源氏方の猪俣則綱(いのまたののりつな)が現れ、組みあいになる。怪力の盛俊はいったん則綱を組み伏せたが、卑劣なわなにはまり、だまし討ちにされた。則綱は、その日の手柄の一番目に記された。
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14.忠度最期(ただのりさいご)
一の谷の西の手の大将軍を任されていた薩摩守忠度(ただのり)は、敗走する途中、源氏方の岡部忠純(おかべただずみ)に呼び止められ組み合いとなり、討たれる。歌人でもあった忠度は、箙(えびら:腰に付けて矢を入れる容器)に、
ゆきくれて木のしたかげをやどとせば花やこよひの主ならまし
という一首の和歌を結びつけていた。そこに名前が記されていたために、この武将が忠度だと分かった。忠度の首を取ったことを忠純が大声で宣言すると、敵も味方も「武芸にも歌道にも優れておられた人を」と言って、涙を流さない者はいなかった。
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15.重衡生捕(しげひらいけどり)
本三位中将(ほんさんみのちゅうじょう)重衡(しげひら:清盛の五男)は生田の森の副将軍だったが、乳母子の後藤兵衛盛長(ごとうびょうえもりなが)の主従ニ騎となって戦場を脱出した。両者の馬は大変な駿馬だったので、敵の追撃を振り切りつつあったが、庄高家(しょうのたかいえ)、梶原景季(かじわらのかげすえ)に追われ、重衡の馬が射られて立ち往生する。盛長は、主君の馬が射られた以上、自分の馬を進上させられるだろうと思い、重衡を見捨てて逃亡してしまった。残された重衡は自害しようとするが、そこへ高家が走ってきて思いとどまらせ、自分の馬に乗せて捕虜として連れ帰った。後日、主君を見捨てた盛長は、人々に糾弾された。
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16.敦盛最期(あつもりさいご)
平家は敗北し、一の谷の合戦は終わろうとしていた。源氏の武将熊谷直実(くまがえのなおざね)は、よい敵を求めて磯の方へ馬を進めていると、沖の船へ逃げようとする一騎の美装の武者を見つける。その武者は、清盛の甥に当たる敦盛(あつもり)だった。熊谷が大声で呼び止めるとその武者は引き返してきた。組み伏せて顔を見ると、まだ17、8歳の若武者で、その顔立ちは薄化粧をして美しく、しかも我が子と同じような年ごろである。直実はどこに刀を刺したらよいかも分からず、敦盛を逃がそうとするが、
後ろを見ると源氏の50騎ほどの軍勢が迫っていた。
もはや逃がすことも叶わず、人の手にかかるよりは、せめて自分の手で討ち取り、後世を弔おうと、熊谷は泣く泣く敦盛の首を取る。彼の腰に、錦の袋に入れた笛が差されているのに気づくと、そうか、夜半に笛の音が聞こえてきていたが、その笛の主だったのかと分かる。熊谷は、野蛮な野武士である自分とはあまりにかけ離れた敦盛の風流さに感嘆した。義経に見せて、事の次第を報告すると、涙を流さない者はいなかった。この一件がきっかけとなって、後に熊谷は出家する。
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17.知章最期(ともあきらさいご)
敗走していく平家勢の中に、新中納言知盛(とももり)と、 息子の知章(ともあきら)、 郎党の堅物頼方(けんもつよりかた)の3騎があった。敵が追撃してくると、知章と頼方は、知盛を逃がすために身を犠牲にする。この間に、知盛は海に逃げ、味方の船に逃げ延びた。知盛が愛馬を陸へ追い返すと、「馬が敵の手に落ちれば事だ。射殺そう」と言う者があったが、知盛は「命を助けてくれた馬なのだ」と、射させず追い返した。この馬は宗盛が昇進した時に下されて、知盛に預けた馬だった。知盛は宗盛に対面し、眼の前で息子を犠牲にして逃げた恥ずかしさ、生に執着する心の弱さを告白して号泣した。
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18.落足(おちあし)
敗走する平家の悲惨な状況は、とめどなく続いた。退却の小舟が転覆したり、従者に見捨てられたりで、無惨な最期を遂げる者が続出した。戦いは2時間ほど続き、源平双方の兵士が数多く討たれ、人馬の切り取られた肉塊が山のようになり、緑野は流血によって薄紅に変わっていた。平家の戦死者は2千余人であり、平家の主だった人は、通盛(みちもり)、業盛(なりもり)、忠度(ただのり)、知章(ともあきら)、師盛(もろもり)、清貞(きよさだ)、清房(きよふさ)、経正(つねまさ)、経俊(つねとし)、敦盛(あつもり)ら10人が命を落とした。都までわずか1日の距離の所まで進み、今度こそ都に帰れるかと期待していたのに、一門は安徳天皇と三種神器を奉じ、またも船で海へ漕ぎ出した。人々の心中は心細く、悲しみでいっぱいだった。
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19.小宰相身投(こざいしょうみなげ)
越前三位通盛(みちもり:清盛の弟の教盛の長男)が湊川の川下で討たれた時、平家一門に同行していた北の方は身重であった。夫の訃報を聞いた彼女は、「生きていて亡き人を恋しく思うより、水の底に入りたい」と語り、乳母の女房は、「あなたの御身一つのことと思ってはなりません。ご出産された後、亡き殿のご菩提をお弔いください」と説得する。しかしその後、乳母の女房がうとうとしている隙に、北の方は船端から身を投げてしまった。彼女は小宰相(こざいしょう)と呼ばれた宮中一の美女であり、通盛が見初めて、3年間も恋文を送り続けて結ばれた仲だった。
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1.首渡し(くびわたし)
寿永3年(1184年)3月12日、一の谷で討たれた平家の人々の首が都に入る。平家に縁のある人々は、自分の身内がどんな辛い目にあうのかと嘆き悲しんだ。父義朝の恥辱を晴らそうとする義経・範頼の強硬な主張に押され、首は大路を引き回され、獄門にかけられた。これまで、公卿の位にあった者の首を引き回すなどという先例はなかった。
維盛(これもり:清盛の長男の重盛の長男)の妻子は、維盛が病気のため出陣しなかった事情を知らず、多くの首の中に維盛がおられるに違いないと心を痛めていた。屋島にいた維盛もまた、妻子を案じていた。侍一人に、無事を知らせる手紙を託して都へ上らせ、侍は妻子の返事を持って屋島に戻ってきた。手紙を読んだ維盛は、出家しようにも気が進まず、今一度妻子に会ってから自害しようと思った。
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2.内裏女房(だいりにょうぼう)
2月14日、捕虜になった重衡(しげひら:清盛の五男)が都の六条通を引き回された。人々は重衡の運命を気の毒がり、悲しみあった。後白河法皇は、助命と引き換えに平家が奉じる三種神器を返還させようと考え、重衡に屋島あての趣意書を書かせた。その頃、幽閉中の重衡のもとに、長年召し使ってきた従者が面会に訪れ、彼の仲立ちで、愛人である内裏の女房と逢うことができた。重衡は女房と手に手を取りあい顔に顔を押し当てて、しばらくは泣くばかりだった。そして、長らく消息が途絶えていたことを詫び、思いがけず捕虜になったのは再び巡り会う運命だったのだろうと語る。顔かたちがすぐれ情の深い彼女は、のちに重衡が奈良に送られて斬首されたと聞くと、すぐに出家して彼の後世を弔った。
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3.八島院宣(やしまいんぜん)
屋島に後白河法皇の使者が到着し、院宣が平家一門の前で開封された。その内容は、三種神器を返還するならば捕虜となっている重衡を返そう、というものだった。
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4.請文(うけぶみ)
院宣を受け取った平家はさっそく対応を協議した。院宣に添えられた重衡の手紙を見て、二位尼時子(にいのあまときこ)は三種神器を返還するよう泣いて懇願するが、三種神器を渡せば安徳天皇には正統性がなくなってしまう、また、変換したところで重衡を返してくれる保障はないと、宗盛、時忠らは反対する。結局、時子の意見は容れられず、重衡を見捨て、三種の神器を奉り、あくまで徹底抗戦することとし、院宣を拒否する返書を送った。しかも、院の使者の顔に受領の焼き印を押して、追い返した。
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5.戒文(かいもん)
捕虜となった重衡と三種神器を交換しようという交渉は決裂した。 望みの絶たれた重衡は出家を望むが、許されない。せめて親交のあった黒谷の法然上人(ほうねんしょうにん)との対面をと願い、許される。重衡は、法然に涙ながらに語る。自分の本意ではなかったが、結果的に南都を炎上させた罪を懺悔し、当時大将軍であったからには責めを負うことは覚悟している。自分のような悪人にも救われる道があればお教えください、と。法然は、重衡を慰め、ひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えよと説き、戎を授けた。重衡は感謝し、お布施として、父清盛から譲られた舶来の硯(すずり)を贈った。
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6.海道下り(かいどうくだり)
3月10日、重衡は、頼朝と対面するため、梶原景時に伴われて鎌倉に護送されて行った。東海道を下る道中、古歌に詠まれた名所・旧跡を通り、駿河国池田(静岡県)の宿では、宿の長者の娘・侍従(じじゅう)と歌を詠み交わした。娘の優雅さに感心する重衡に、景時は彼女の逸話を語る。昔、重衡の兄の大臣殿(宗盛)がこの国の守として赴任した時、彼女を見初めて京へ召し出した。ある時、彼女の母親が病気になったが、大臣殿が故郷に帰してくれないので、「いかにせむ みやこの春もおしけれど なれしあづまの花や散るらむ」という歌を詠んで、帰省を許されたと。
都を出てからの日数を数えると、すでに3月の半ばを過ぎ、春も終ろうとしている。重衡は自分の悪運を嘆くが、子のないことをむしろ慰めとしながら、鎌倉に入った。
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7.千手の前(せんじゅのまえ)
鎌倉入りした重衡は、さっそく頼朝と対面した。南都を焼き討ちにした件を尋ねられた重衡は、焼き討ちは清盛の命令でも重衡の咄嗟の判断でもなかったといい、平家の運命の傾いたことを語り、さっさと首を刎ねるよう求め、その後は一言もしゃべらない。重衡の毅然とした態度に、並みいる人々は感動した。源氏の武将、狩野介宗茂(かののすけむねもち)に監禁された重衡は、虜囚ではあったが手厚くもてなされた。千手(せんじゅ)という女房が甲斐甲斐しく世話をし、また、音楽の相手などもして慰めてくれ、夜通し飲み明かした。その夜が縁となったか、千手は重衡の死後、出家し、重衡の菩提を弔い、往生したという。
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8.横笛(よこぶえ)
屋島にいる維盛(重盛の長男)は、都に残してきた妻子のことが気がかりでたまらない。また、屋島で一門を率いる宗盛らから信用されていないことにも耐えられなかった。そこで、家来三人を連れて屋島を抜け出し、京に入るのはあきらめ、高野山に向かう。高野山には、旧知の滝口入道という僧がいた。元は斎藤時頼(さいとうときより)という重盛の家臣だったが、 建礼門院に仕える身分の低い横笛という女房と恋仲になってしまった。しかし、親に反対されたのを機に19の年に出家し、以来、修行に専心する日々を送っている。
横笛は、黙って姿を消した滝口に逢いたくて寺を訪ねたが、滝口は、障子の隙間から横笛の姿を見ただけで、会わずに帰してしまう。そして、横笛によって邪念が生じるのを避けるために、高野山に居を移したのだった。やがて横笛も尼になったが、心痛のあまりか、ついに亡くなってしまう。滝口はますます修行に励み、ついには「高野の聖」と呼ばれるようになった。維盛は久しぶりに滝口に再会したが、俗世の時分とは打って変わった彼の墨染姿を見て、家族への愛執にとらわれている自分を反省した。
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9.高野の巻(こうやのまき)
滝口入道は、思いがけない維盛の来訪に驚き、屋島からどうやって逃げてきたのかと尋ねた。維盛は、屋島の陣を離れてきたいきさつを語った。大臣殿(宗盛)や二位殿が、自分が裏切るのではと警戒し、関係がうまく行かなくなっていること、都の妻子にもう一度会いたいと思ったが、本三位中将(重衡)が捕われ、都で引き回されたことを思うとそれもできない、いっそのことここで出家して、火の中、水の底でも入ろうと思う、と。そして、その前に熊野神社に参詣したいと強く願っていることを告げた。これを聞いた滝は維盛に同情し、先導して、奥の院に詣でた。そこには弘法大師廟があり、延喜年間に、醍醐天皇が夢のお告げにより勅使を派遣したという神秘な伝承がある。
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10.維盛の出家(これもりのしゅっけ)
維盛は滝口入道の庵室で夜通し語り明かし、夜が明けると、いよいよ出家しようとして、付き従ってきた重景(しげかげ)と石童丸(いしどうまる)に帰京を勧める。しかし、どうしてもご一緒させてほしいといって聞き入れないので、二人とともに出家した。もう一人の従者である武里(たけさと)に、屋島の陣への伝言を頼むと、「最期のさまを見届けてから戻ります」というので、維盛は承知した。維盛主従4人と滝口入道は、山伏姿で熊野に向かった。途中、土地の豪族の湯浅宗光(ゆあさむねみつ)一行と行き合い、宗光は相手が惟光一行だと気づいたが、遠慮されてはいけないと思い、黙礼をしただけで通り過ぎた。
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11.熊野参詣(くまのさんけい)
山伏姿となって熊野に着いた維盛一行は、本宮・新宮・那智を巡拝する。本宮では、かつて父重盛が詣で、子孫繁栄を祈願したときのことが思い出される。維盛は自分の極楽往生を祈願しながらも、いまだ妻子のことが気にかかっていた。翌日、本宮から舟で新宮に参り、さらに那智の御山に参る。花山法皇がお住まいになったという御庵室の跡には老木の桜が咲いていた。那智籠りの修行僧の中に、維盛を見知った人があった。かつて後白河法皇の五十の賀で、維盛が桜の花をかざして「青海波(せいがいは)」を舞った当時を思い、 落ちぶれた姿を見て落涙した。
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12.維盛の入水(これもりのじゅすい)
維盛は、熊野三山の参詣を終えると、浜の宮王子から小舟に乗り、沖の山成島(やまなりじま)に向かって漕ぎ出した。島に上がり、松の木に祖父清盛、父重盛の名と並べて自らの名を刻み、「生年二十七歳、寿永三年三月二十八日、那智の沖にて入水す」と墓碑銘を書き付ける。維盛は手を合わせ念仏を唱えるが、なお妻子への未練を捨てきれない罪を懺悔する。滝口入道は出家の功徳の大きさを説き、また「悟りを開いて成仏したら、妻子を導くこともできるだろう」とも説く。維盛はようやく決心がつき、「南無」と唱えながら那智の海に飛び込んだ。供の二人も後を追い入水した。
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13.三日平氏(みっかへいじ)
残された武里は屋島に戻り、維盛の最期を一門の人々に報告する。弟の資盛(すけもり)は、兄の遺書・遺言を受け取って悲嘆に暮れた。大臣殿(宗盛)も二位殿も、維盛を疑っていたことを後悔した。
4月1日、頼朝は、義仲追討の功により、五段階を飛び越えて正四位下となった。5月4日、清盛の弟の頼盛(よりもり)は、度重なる頼朝の招待に応じて鎌倉へ下った。頼朝は、頼盛の亡き母、池禅尼(いけのぜんに)が、平治の乱で捕虜となった頼朝の命乞いをしてくれたことの恩を忘れていなかったのである。そして、捕虜となった頼朝を手厚く世話したのは、頼盛の家臣、宗清(むねきよ)だった。頼朝は宗清との再会を待ち焦がれていたが、宗清は西国の平家一門の苦境を思い、鎌倉には同行せず、頼朝を落胆させた。鎌倉で歓待を受けた頼盛は、6月9日に京へ戻った。
都に隠れ住む維盛の妻子が、維盛の死を知ったのは7月も末になってからであった。悲嘆はひととおりではなかったが、安らかな心で入水したと聞き、維盛の後世を弔った。
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14.藤戸(ふじと)
維盛の入水を聞いた頼朝は、かつて維盛の父、重盛から受けた恩義を思い、助命の機を逸したことを惜しんだ。かつて、池禅尼の使者として頼朝を死罪から流罪にするよう取りなしてくれたのは重盛だった。その恩は忘れていないので、子息だけは助けようと思っていたのだった。
屋島の平家は、一の谷の合戦で大勢の平家一門が討たれ、主だった侍どもも半分以上を失い、東国勢や九州の兵が攻めてくるとの噂を聞いて、不安を募らせていた。ただ阿波重能(あわのしげよし)が四国の兵を味方につけて、平家方にいるのが頼りだった。7月28日、都では、後鳥羽天皇の即位の儀式が行われた。三種神器もなく、異例の事態であった。8月6日に範頼は三河守に、義経は左衛門尉・検非違使に任ぜられる。
9月12日、範頼軍3万余騎が西国に向かった。資盛(すけもり)らの率いる平家軍は、5百余艘の軍船で備前国の児島(倉敷市)に向かった。範頼軍は対岸の藤戸に布陣して、平家軍に対峙した。源氏側には軍船がなかったため攻めあぐみ、平家はそれをからかって挑発した。25日、源氏側は土地の漁師を買収して、騎馬で渡れる浅瀬を聞き出し、翌26日に海を渡って攻め、大勝利した。夜になると、源氏は児島に上がり、平家は屋島に退却した。
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15.大嘗会の沙汰(だいじょうえのさた)
9月27日、義経は検非違使・五位尉に任ぜられて、九郎大夫判官と呼ばれる。都では大嘗会に先立つ御禊の行幸があり、九郎判官が行列の警護役としてお供する。その様子は木曾義仲などよりは都慣れてしてるが、平家の貴族武士にははるかに劣った。11月18日、大嘗会が行われる。合戦や飢饉などで人民が苦しんでいる中、こんな大礼を行うべきではないが、そういうわけにもいかないというので、型通りに行われた。一方、藤戸で勝利した範頼は、そのまま攻め続ければ平家をたやすく滅ぼせたであろうに、その好機を逃したまま、遊女などを集めて遊興三昧にふけっていた。東国の大名小名も大勢いたが、大将軍の下知には従わざるを得ず、ただ国費の無駄遣いと民の苦しみばかりで、今年もすでに暮れてしまった。
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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