平家物語~各段のあらすじ(つづき)
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1.逆櫓(さかろ)
元暦2年(1185年)正月10日、義経は御所で後白河法皇に面会し、さらに平家を追討する許可を得る。一方、屋島の平家軍は、東西からの挟撃の噂におびえつつ、陣を固めていた。すでに都落ちから3年の時が流れ、全国で反平家の動きが起こっていた。女房たちは嘆き悲しみ合い、知盛は、多くの者が平家の恩を蒙ったにもかかわらず、その恩を忘れて頼朝や義仲らに従ったことを悔しがり、やはり都で全滅を覚悟で戦うべきだったと後悔する。
2月16日、義経、範頼の軍団がまさに船出しようとした時、嵐が起こって延期になる。その日、軍議が開かれ、義経は梶原景時と逆櫓(さかろ:後退用の艫)をめぐって口論となる。梶原は、源氏軍は海戦に不慣れなので逆櫓を付けて退却しやすくすべきと提案、しかし義経は、はじめから逃げることを考えるのは気に入らないと主張し、大激論となった。侍たちは、義経と梶原の間で同士討ちかと、騒ぎ合った。
その夜、義経は嵐も収まらない中、200艘の軍船のうちわずか5艘の船で強引に出航した。一晩中船を走らせ、普通なら3日かかる航路を6時間で漕ぎ渡り、
17日の早朝、阿波国勝浦(徳島市)に到着した。
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2..勝浦合戦(かつうらかっせん)
勝浦に上陸した義経らは、夜が明けると、渚近い平家の陣に攻め寄せ、百騎ばかりの守備隊は蹴散らされてすぐに退散した。さらに捕らえた敵兵の近藤親家(こんどうちかいえ)という武者を味方に引き入れて道案内させ、平家方の地元武士、桜間能遠(さくらばよしとお)の城を攻撃、敗走させる。幸先の良い初戦の勝利に、義経は喜びの鬨の声を上げた。
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3.大坂越(おおさかごえ)
義経は親家(ちかいえ)から、平家軍は今は各地に兵を分散しており屋島の陣は手薄であるという情報を得て、ただちに屋島の急襲を決断し、国境の大坂山(徳島県板野郡)を夜通し越えていった。途中、敵の伝令と遭遇、都からの手紙を奪い取って見ると、それは都の女房が宗盛に宛てたものらしく、「義経はするどい男なので、大風波風も厭わず寄せてくると思います。勢力を分散させ用心なさいませ」と書かれていた。
18日早朝、義経は、大軍と見せかけるために民家に火をかけ、干潮を利用して屋島城を急襲した。ちょうど出兵先から帰還し、首実検の最中だった平家は、大軍と誤認して次々に船に乗り移って海上に漕ぎ出した。義経は平家に小勢であるのを見られまいと、数騎ずつに分散し、群れをなして攻撃する。
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4.嗣信最期(つぎのぶさいご)
屋島に上陸した義経らは次々と名乗りをあげ、内裏に放火してことごとく焼き払った。海上に逃れた平家は、義経軍の兵数の少なさを知り、猛将教経(のりつね)を主軸として巻き返しを図る。まず互いを罵り合う舌戦から始まり、次に教経が船上から矢を射る。義経を狙うが、家来たちが立ちふさがり、真っ先に前に進み出た佐藤嗣信(さとうつぎのぶ)が、教経の放った矢によって射殺される。義経は嗣信の死を悼み、近くの寺に愛馬の大夫黒(たゆうぐろ)を布施として納め、ねんごろに弔った。それを見た兵たちは、「この君のために命を失うことは少しも惜しくはない」といって涙した。
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5.那須与一(なすのよいち)
義経が屋島の城を攻め落としたと聞いて、阿波・讃岐の豪族たちは次々と平家に背き、源氏に帰服する。義経軍はいつの間にか3百余騎に膨張した。夕暮れになり、決着をあきらめていったん休戦となる。すると、沖に停泊している平家軍の船団から、飾り立てた一艘の小舟が源氏の陣に近づいてくる。舟には歳18、9ばかりの女房が乗っており、竿を立てた先に扇を挟んで、手招きをしている。義経が後藤兵衛実基(ごとうびょうえさねもと)を呼んで「あれはどういうことか」と尋ねると、「あの扇を射ぬいてみよということでしょう」と言う。義経が、誰に射させるべきか尋ねると、後藤兵衛は那須与一(なすのよいち)を推薦する。
義経はすぐに与一を召し出して扇を射るように命じる。与一はあまりの大役に一度は辞退するが、義経の強い剣幕に、覚悟を決めて水際へ乗り出した。北風が強く吹き、舟は上下に動き、扇はさらにゆらゆらと揺れ、的が定まらない。夕方でもある。源平両軍が固唾をのんで見守っている。緊張が極度に達するなか、与一は故郷の神々に祈る。すると一瞬、扇が止まって見えた。すかさず射ると、扇の要際一寸のところを見事に射通し、扇は空に舞い上がって海に落ちた。沖の平家、陸の源氏は、みな感動してどよめいた。
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6.弓流(ゆみながし)
那須与一が扇を射ると、それに感動した平家の武士が、舟の上で薙刀を手に舞い出した。与一は命を受けて、男を射る。両軍から、讃嘆と慨嘆の交じる声があがった。怒った平家は、三人の武者を上陸させ戦う。平家方の上総の悪七兵衛景清(あくしちびょうえかげきよ)が、敵の甲の錣(しころ:甲の首周りを防御する部分)を引きちぎって戻ってきた。勢いづいた平家方と義経軍が激闘し、船に戻る平家を追って、海中に馬を乗り入れた。義経は深入りして戦ううちに、弓を敵の熊手に引っかけられて、海に流してしまい、危険を冒して取り戻す。老練な武者たちは義経の無謀な行為を非難するが、義経は、「大将の弓がこんな貧弱なものだと、敵に笑われたくなかった」と語り、周囲を感心させる。
夜になり、平家は海で、源氏は陸で休息した。この3日間、不眠不休で戦ってきた源氏の兵たちはぐっすり寝入った。ただ義経と伊勢三郎だけは、敵襲に備えて不寝番をした。平家の陣では夜討ちの支度をしていたが、仲間内で先陣争いをしているうちに夜が明け、せっかくの好機を逃してしまった。
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7.志度合戦(しどかっせん)
翌日、屋島から志度浦(しどのうら)に退いた平家はそこでも敗れ、四国を追われ、源氏に寝返った九州にも戻れず、風にまかせ、波に揺られてさすらう。勢いを得た源氏は、平家方の有力な家人・阿波民部重能(あわのみんぶしげよし)の息子、田内左衛門教能(でんないざえもんのりよし)を偽情報によって降伏させ、これによって四国は義経によって平定された。。その頃になって、ようやく梶原景時の船団が屋島に着いた。今さら何をしに来たのかと人々は嘲笑する。
義経が都を出発した後、住吉神社(大阪市)の神殿から西方に矢が飛んだという瑞兆の報告があり、後白河法皇は朝敵平家の滅亡を予感した。
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8.壇の浦合戦(だんのうらかっせん)
義経はそのまま西に向かい、周防(山口県大島郡)で兄の範頼と合流する。もとは平家寄りだった熊野別当湛増(くまののべっとうたんぞう)は、源平どちらに付くか決めかねていたが、託宣と闘鶏の結果により、源氏に付くことにした。また、四国の河野通信(かわののみちのぶ)も源氏に帰順し、これにより源氏の水軍は3千余艘に膨れ上がり、対する平家は千余艘、大型の唐船も混じっていた。決戦は3月24日の卯の刻(午前6時ごろ)、豊前国門司(北九州市)、赤間の関(下関市)で、源平矢合せと決定した。梶原景時が先陣を願い出ると、義経は自分こそが先陣を務めると主張し、激しい口論となる。あやうく同士討ちになりかけ、周囲の武将らがなだめて事なきを得たが、この時から、梶原は義経を憎み始める。
いよいよ開戦となり、平家側では、知盛が、戦は今日が最後、命を惜しまず戦えと下知していた。源氏軍は潮流に逆らって進むため、押し返される。一方、平家軍は潮流に乗って進んだ。景時の一族は敵船に乗り移って活躍するが、三手に分かれた平家軍は色んな所から射てくるので、どこに精兵がいるのか分からない。義経も先頭に進んで戦うが、散々に射られて勢いを挫かれる。平家は勝利を確信し、しきりに攻撃の鼓を打って、鬨の声をあげる。
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9.遠矢(とおや)
よく訓練された平家の水軍は、統制の取れた攻撃で源氏に水軍をさんざん悩ませた。軍船の数は源氏がまさっていたが、勝負は平家が圧倒的に優位だった。源平両軍で、矢を飛ばす距離を競う遠矢の応酬があり、その後、激闘が続く。空から白旗が漂って現れ、源氏の船に舞い落ちる。源氏は八幡大菩薩が現れたと喜ぶ。また、いるかの大群が出現し、平家の船の下を通り過ぎ、平家の運の尽きたことを予感させた。
阿波民部重能(あわのみんぶしげよし)は、子息を屋島で生捕りにされていたことから、やむなく源氏方に内通した。平家方は唐船に雑兵を、兵船に大将軍を配置し、源氏方が唐船をめがけて攻めてきたところを包囲して討とうという作戦を立てていたが、阿波民部重能によってこの策は源氏方の知るところとなった。源氏方は唐船は無視し兵船ばかり狙い撃ちにした。
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10.先帝御入水(せんていごじゅすい)
四国・九州の武士たちもみな平家に背き、平家滅亡の時は刻々と近づいてきた。大将軍の知盛は、安徳天皇の御座舟を清め、それとなく女房たちに戦況を知らせる。最後を察した二位尼時子は、8歳の安徳天皇を抱き、三種神器のうちの宝剣・神璽(しんじ)を身に付け、船端に立つ。祖母のただならぬ様子に驚き、「私をどこへ連れていくのか」と問う安徳天皇に対し、二位尼は涙を抑え、「辛いこの日本を離れ、極楽浄土にお連れします」と答える。そして、尼の言葉のままに小さな手を合わせて、伊勢大神宮に別れを、西方浄土に向かって念仏を唱え、海に入った。
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11.能登殿最期(のとどのさいご)
母と息子に先立たれた建礼門院徳子も、続いて入水するが、源氏の武士に髪を熊手で引っ掛けられ、引き上げられてしまう。三種神器の一つ、神鏡は無事に保護される。さらに、教盛・経盛兄弟は鎧に碇(いかり)を背負い、互いに手を組んで入水、資盛・有盛兄弟と従兄弟の行盛も、3人手を組んで入水する。しかし、宗盛・清宗父子だけは覚悟ができずにためらっていたので、宗盛は家臣に海へ突き落とされた。それでも死にきれず、父子ともども救助され捕虜となった。
能登守教経(のりつね)は、今日を最後と奮戦し、義経を発見して追うが、義経は対戦を避けて、離れていた味方の船に飛び移った。諦めて、武器を海に投じ、大手を広げて立ちはだかり、大音声で名乗りをあげた。そこへ安芸太・次郎兄弟が組みついたが、教経は兄弟を両脇に抱え込んだまま入水する。
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12.内侍所の都入(ないしどころのみやこいり)
新中納言知盛(とももり)は、平家一門が次々に入水していく様を見届けて、「見るべき程の事は見つ。今は自害せん(見届けなければならないことはすべて見た。今は自害しよう)」と言って、乳母子の伊賀平内左衛門家長(いがのへいないざえもんいえなが)と、共に鎧を2領着て、互いに手を組んで入水する。こうして、壇の浦の合戦は終わった。平家の主だった人で生け捕りにされたのは、男は宗盛、時忠をはじめ38人、女は建礼門院をはじめ43人であった。
4月3日、後白河法皇に義経から勝利の報告が入る。同14日、平家一門の捕虜が義経に護送されて明石の浦に着いた。平家の人々は月を眺めてしみじみ感慨にふけり、歌を詠んだ。義経は武士ではあるが情のある男だったので、その様子を身にしみて哀れに思った。同25日、三種の神器のうち宝剣を除く神璽・神鏡(内侍所)が無事に都に戻る。宝剣は海に沈んだまま、ついに還らなかった。
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13.剣(けん)
壇の浦に沈んだ宝剣は、皇室に伝来した草薙の剣(くさなぎのつるぎ)であり、その起源は神代にさかのぼる。昔、出雲国で、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、その尾から出てきた剣を、天照大神に献上した。第12代景行天皇の時、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征に向かうに際して授かり、賊軍が野に放った火に囲まれた時に、この剣で草を薙ぎ払って難を逃れたので、以来、草薙の剣と呼ばれるようになった。日本武尊の死後、草薙の剣は熱田の社に納められたが、第40代天武天皇の時に内裏へ戻された。
そのような貴重な宝剣が海底に沈んでしまったため、多くの海女に捜索させ、さかんに祈りを捧げたが、ついに見つからなかった。占いによれば、この剣が海底に沈んだのは、あの退治された大蛇が、天皇家80代の後、安徳天皇となって剣を取り戻したからだという。海の底で神竜の宝となった以上は、人間界に戻らないのももっともなことだと思われた。
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14.一門大路渡され(いちもんおおちわたされ)
平家に連れ去られた二の宮(安徳天皇の弟)が都へ帰還し、人々は喜ぶ。4月26日、捕虜となった平家一門が、源氏の騎馬武者に護送されて入京、都大路を引き回された。みな白衣を着せられ、元公卿は牛車に、家臣らは馬に乗せられていた。牛車は、見せしめのために前後の簾を開け、左右の物見の窓も開いている。彼らを見ようと道は見物人であふれ、後白河法皇や公卿・殿上人も見物する。宗盛父子、時忠父子などに、かつての面影はなく、一年前の平家の栄華を知る人々は、その落差を複雑な思いで見つめていた。その後、宗盛父子は義経の宿所に連行される。
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15.鏡(かがみ)
4月28日、頼朝は三階級特進して、従二位に昇進した。その夜、内侍所(神鏡)が都へ戻ったことを祝い、神楽が奏された。内侍所は、天照大神が自分の姿を後世に伝えるために鋳造させた鏡のうちの一つである。以来、天皇を守護するため宮中に安置された。霊威が強く、村上天皇時代の天徳4年(960年)、平安遷都以来、宮中に初めて火事があった折、内侍所は自ら炎から飛び出し、桜の枝に止まって難を逃れた。それを太政大臣の藤原実頼(さねより)が招きよせると、内侍所は実頼の袖に飛び込んだという。
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16.平大納言の文の沙汰(へいだいなごんのひみのさた)
大納言時忠(ときただ)は、義経の宿所の近くに捕らえられていた。時忠は不利な証拠となる文書を義経に押収されていることを心配していた。そこで子息の讃岐中将の提案で、美人の娘を義経に嫁がせ、女性に弱い義経を懐柔することした。義経はすでに河越太郎重頼の娘を妻としていたが、時忠の娘をとても大切に扱った。彼女から例の文書のことを言われると、何も聞かずに時忠に返し、喜んだ時忠はその文書を焼き捨てた。どんな内容の文書だったのだろうか。
長かった源平の争乱が収まり、都に平穏が訪れると、義経への世間の期待が次第に高まってきた。鎌倉の頼朝は、平家の婿になる義経の軽率な行動や、高まる評判を不快に思い、将来、義経が驕り昂ぶって自分に背くのではないかと危惧するようになる。
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17.副将斬られ(ふくしょうきられ)
5月6日、義経が宗盛父子を鎌倉へ護送することになった。宗盛は、会うことのできなかった8歳の次男(愛称を副将という)との最後の面会を願う。幼い副将はひたすら父との再会を喜び、父の袖にすがって離れないいたいけな姿は、周囲の涙を誘った。しかし、義経は父子の面会は許したものの、家臣に副将の斬首を命じた。翌日、再び車に乗せられた副将は、また父と会えると喜ぶが、河原で降ろされる。恐怖におびえ、乳母の懐に隠れたが、引きずり出されて斬首される。幼い子まで殺さねばならぬ不憫さに、勇猛な武者たちもみな涙を流した。その後、首を抱いた乳母と、遺骸を抱いた付き添いの女房の二人は、桂川に身を投げて後を追った。
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18.腰越(こしごえ)
5月7日の明け方、義経は宗盛父子を伴って京都を発ち鎌倉へ向かった。宗盛は道中で義経に命乞いをし、義経は、「我が勲功に代えても、必ず命ばかりはお助けします」と言って励ました。宗盛が、「たとえ蝦夷の住む千島でも、命さえあれば有り難いです」と言うのは情けない有様だった。一方鎌倉では、梶原景時が頼朝に、「義経に謀反の心あり」と中傷していた。一の谷合戦での義経の思いあがった言動を語り、頼朝に用心せよと促した。そして5月23日、金洗沢(かなあらいざわ:鎌倉市七里が浜)に設けられた関所で宗盛父子の身柄を引渡すと、義経自身は腰越(鎌倉の西端)に追い返された。対面すら許さない頼朝の理不尽な態度に困惑するが、どんな釈明も受け入れられない。義経は、誓って二心なき旨を書状にしたため、大江広元(おおえのひろもと)に託した。これが腰越状である。
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19.大臣殿誅罰(おおいとのちゅうばつ)
5月24日、頼朝は宗盛と簾越しに対面した。宗盛は居住まいを正し、畏まって頼朝の言葉を聞く。その様子には、かつて平家の総帥だった威厳も誇りも感じられず、並みいる武将たちを失望させ、失笑を買う有様だった。
6月9日、義経は、頼朝との和解ができないまま、宗盛父子を連れて京に戻る。道中、宗盛父子は処刑に怯えながら、23日、近江国篠原(滋賀県野洲郡)に着いた。義経は宗盛の妄念を晴らすために、京から聖人である本性房湛豪(ほんじょうぼうたんごう)を呼び寄せていた。宗盛は湛豪の説教によって心穏やかに念仏を唱え始めたが、斬首される直前になって、息子(清宗)もすでに斬られたのかと心配し、死んでいく。その後、清宗は父の最期が安らかであったと聞き、安心して斬首される。23日、父子の首は京に入り、大路を引き回された後、獄門にかけられ、さらし首にされた。こうして宗盛は、西国からは捕虜として、東国からは死骸となって上京し、生き恥も死に恥もさらすことになった。
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1.重衡の斬られ(しげひらのきられ)
一の谷合戦で捕虜となった重衡(しげひら)は、伊豆の狩野介宗茂のもとで囚われの日を送っていたが、南都の僧兵が引き渡しを要求してきたので、奈良に移される。その途中、醍醐路を通るときに、近くの日野(京都市)に隠れ住む北の方との最後の対面を守護の武士に願い、許される。重衡は形見にと前髪を食い切って渡す。妻は夫の汗ばんだ着物を、こざっぱりとした着物に着替えさせた。そして重衡に筆跡を求め、重衡は一首の歌を残す。後の世での再会を約束し、重衡は後ろ髪を引かれる思いで屋敷を後にする。
南都では残酷な処刑も検討されたが、木津(きづ:京都府相楽郡)で首を斬ることになる。直前に駆けつけた旧家臣に仏を拝みたいと願い、探して見つけてきてくれた阿弥陀如来像の手にかけた紐を持ちながら、心を澄ませて斬首された。首は般若寺(はんにゃじ:奈良市)の大鳥居の前に釘付けにされた。そこは重衡が南都を炎上させたときに、指揮を執った場所であった。その後、重衡の遺体は北の方によって引き取られ、北の方も尼になり、夫の後世の菩提を弔った。
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2.大地震(だいじしん)
戦火が消え、人心も安らかになった元暦2年(1185年)7月9日の正午ごろ、京に大地震が起きる。都は壊滅状態となり、多くの人命が失われる。被害は近隣諸国にまで及び、天皇・法皇の宮殿も損壊した。人々は、安徳天皇が海に沈み、宗盛や重衡などかつての大臣・公卿が処刑されたので、その祟りだと噂した。
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3.紺掻の沙汰(こんかきのさた)
8月22日、高雄の文覚上人(もんがくしょうにん)が、頼朝の父義朝(よしとも)の髑髏(どくろ)を持って、 頼朝のもとに届ける。以前、頼朝に「父の髑髏だ」と見せたのは挙兵を促すための偽物だった(巻第5「伊豆院宣」)。本物の髑髏を密かに弔っていたのは、義朝が親身に召し使っていた紺かき(藍染の職人)の男で、義朝の首が獄門に懸けられていたのを見かねて検非違使別当に頼んでもらい受け、東山の寺に納めていた。それを文覚が聞き出して、髑髏とともに鎌倉に連れてきたのだった。頼朝は涙ながらに亡父の髑髏を受け取り、供養のため鎌倉に菩提寺を建立し、朝廷も義朝に内大臣正二位を追贈した。
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4.平大納言の流され(へいだいなごんのながされ)
9月23日、まだ都にいた平家一門の捕虜がそれぞれ配流の地に赴いていった。平大納言時忠(ときただ)は、姪にあたる建礼門院に別れを告げ、能登に下る。時忠は清盛の義兄にあたり、出世は思いのまま、高倉天皇の伯父として権勢を振るった人物である。気性の激しい人で、検非違使別当の時には罪人の両腕を切り落としたので「悪別当」とも呼ばれた。三種の神器を返還せよと言ってきた使者の顔に焼き印を押したのもこの時忠である(巻第10「請文」)。都に戻ってきてから義経に接近したことが頼朝を不快にさせ、流罪を免れることはできなかった。
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5.土佐坊斬られ(とさぼうきられ)
義経が頼朝から謀反の疑いをかけられているとの噂が立ち、法皇はじめ誰もが不審がった。すべては梶原景時の中傷を、頼朝が真に受けたためだった。頼朝は義経追討を決意し、土佐房昌俊(とさぼうしょうしゅん)を召して、義経の殺害を命じた。9月29日に京に着いた昌俊は、翌日、義経に拝謁した。自分を殺しに来たのではないかと疑う義経に、土佐房は身の潔白を証明するため起請文を書いて追求をかわした。
宿所に戻った土佐房は、もはや一刻の猶予はないと、その夜に襲撃を図るが、義経の愛妾、静(しずか)が異変に気づいた。往来に武者がひしめいてただならぬ様子だったので、元の禿髪(かぶろ)を使いに送るが、なかなか戻ってこない。召使の女に偵察に行かせると、禿髪は斬り殺されており、宿所には武士どもが具足を整えていた。
義経は静からの報告を聞くと、ただちに迎え撃つ準備をする。夜半ごろ、土佐房率いる4、50騎が義経の館に押し寄せる。義経がただ一騎で応戦しているところに、伊勢三郎義盛、佐藤四郎兵衛忠信、
武蔵坊弁慶など一人当千の豪傑陣が駆けつけて、土佐房の侍どもは散々に破られる。土佐房自身は命からがら逃げ延びるが、すぐに捕縛され、義経の前に引き出される。義経は、土佐房の忠義に免じて助命しようとしたが、土佐房は、「鎌倉殿に命を受けた日からこの命は鎌倉殿に差し上げている。どしてそれを取り返せようか。早く首を斬れ」というので、六条河原で首を斬られた。その堂々とした態度を誉めない人はいなかった。
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6.判官都落(ほうがんみやこおち)
土佐房(とさぼう)が討たれたという報を受け、頼朝は次に弟の範頼に義経追討を命ずる。範頼は辞退するが、断りきれずに出発することになる。しかし、頼朝から謀反の疑いをかけられ、結局、殺される。さらに、北条時政(頼朝の妻政子の父)率いる追討軍が上京するとの情報に接し、義経は九州へ逃れることを決意、法皇に嘆願し、九州の武士団は義経の配下になるようにとの御下文を出してもらった。
11月3日、西国へ向かった義経勢だが、大物(だいもつ)の浦で嵐に遭い、船は難破し、住吉の浦(大阪市)に漂着、吉野にいったん逃げる。しかし、そこで吉野の僧兵に攻められ、奈良へ逃げると、そこでも奈良の僧兵に攻められ、都に戻り、後には北国に向かい、平泉に逃げ延びることになる。ご難続きは平家の怨霊の仕業と思われた。
そして7日、北条時政が代官として6万余騎を率いて都に入り、頼朝からの申し状によって、今度は義経追討の院宣が下された。去る2日には頼朝に背くようにとの御下文が出たばかりであり、まさに朝令暮改の不安定な政情が続いた。
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7.吉田大納言の沙汰(よしだのだいなごんのさた)
頼朝は日本国の惣追捕史(そうついぶし)に就任し、田地からの兵糧の徴発権を朝廷に要求した。「これは過ぎた申し出である」と法皇は仰せになったが、公卿たちの会議の結果、頼朝の要求にある程度の理があるとしてこれを許したという。諸国に守護を置き、荘園に地頭を任命、わずか一毛の土地も隠れようがなくなった。
頼朝はこうした公武間の交渉を、大納言の吉田経房(よしだつねふさ)に一任した。経房は、平家にも源氏にもへつらうことのない公正な人物として知られていた。経房は権右中弁光房朝臣(ごんのちゅうべんみつふさのあそん)の子で、幼い頃に父を亡くしたが、順調に昇進し、最後には正二位大納言に至った。その志操堅固さに、頼朝は絶大な信頼を寄せていた。
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8.六代(ろくだい)
北条時政は、平家の残党を捜索する。平家嫡流の六代御前は維盛(これもり)の長男で、この時12歳だった。母と妹と、大覚寺の北に隠れ住んでいたが、密告によって発見され、ついに捕らえられる。乳母の女房はじっとしていられず、高雄の文覚上人を訪ね、六代の助命を涙ながらに願う。文覚は頼朝からの信頼が厚く、高貴な家柄の子供を弟子にしようとしているとの情報を得たからだ。相談を受けた文覚は六代に会いに行き、彼の可愛らしく気品あふれる様子に心を動かされた。文覚は時政に六代の処刑を20日間延期するよう求め、頼朝に助命を願うため鎌倉に下る。しかし、予定の日を過ぎても文覚は戻って来ない。時政は、内心では六代が助命されるのを願っていたが、これ以上待てず、六代を連れて京を出発する。
鎌倉までは連行せず、駿河国千本松原で処刑することになった。六代も覚悟を決め、静かに手を合わせる。斬り手は太刀を構えたが、涙で目も見えず正気を失ったので断念し、別の者に代わりに斬らせようとするが、皆が躊躇し、誰が斬るとも定まらない。そこへ、頼朝の赦免状を持った文覚が馬で駆けつけた。
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9.泊瀬六代(はせろくだい)
文覚が現れたことで、時政も一安心する。助命がかなった六代は、文覚に連れられて、翌年正月5日に都に戻る。長谷寺に籠って六代の延命祈願をしていた母や乳母の女房との再会の喜びにひたった後、文覚のもとに引き取られた。
義経方についていた行家、義憲(ともに頼朝の叔父)も粛清される。行家は天王寺に逃げていたが、危険を察して熊野に向かう。その途中、和泉国八木郷で、追手の常陸房正明(ひたちぼうしょうめい)らと乱闘になり捕縛され、淀の赤井河原で斬首される。義憲は伊賀国の千戸の山寺に逃げていたが、襲われて自害した。
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10.六代斬られ(ろくだいきられ)
平家一門の残党も次々と非業の死を遂げる。文覚の嘆願によって助命した六代御前の成長に、頼朝は、かつて自分が平家を討ったように、いつか六代が背くのではないかとの不安に思っていた。文治5年(1189年)、16歳になった六代は、頼朝の疑念を晴らすために出家し、文覚にいとまをもらい、高野山から熊野へと、亡き父の足跡を訪ねながら、修行の旅を続けた。
建久10年(1199年)正月、頼朝が死去する。文覚は時の後鳥羽天皇の執政を批判し、謀反の罪で隠岐(島根県)に流された。30余歳を迎えていた六代は文覚の庇護を失い、危険人物のかどで捕らわれて、鎌倉近くの田越川(たごしがわ)で処刑された。ここに平家の子孫はすべて絶え果てた。
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1.女院御出家(にょういんごしゅっけ)
壇の浦で入水したものの救命された建礼門院徳子は、都に戻され、東山の麓の吉田にある荒れ果てた僧坊に入り、侘住いしていた。文治元年(1185年)5月に出家するものの、窮乏生活のため出家の布施に差し出せるものもなく、亡き御子、安徳天皇の唯一の形見の衣を、天皇の菩提のためにもと、差し出す。かつて仕えていた女房たちも、すでに離散してしまっていた。
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2.大原入(おおはらいり)
去る7月に都を襲った大地震で、吉田の僧坊もますます荒廃したため、9月末に、女院はさらに閑居を求めて、山深い大原の寂光院(じゃっこういん)に移った。その脇に小さな庵室を造り、先帝と平家一門の菩提を弔う日々を送る。ある日の暮れ方、物音がするので何者かが来たのかと、大納言佐(だいなごんのすけ:先帝の乳母)を見に行かせると、牡鹿が通りかかったのだった。大納言佐はそれを歌に詠み、女院はその歌を障子に書きとめて残した。
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3.大原御幸(おおはらごこう)
翌年の文治2年(1186年)4月下旬、後白河法皇は建礼門院に会うため、お忍びで大原寂光院を訪れる。案内に出た老尼は、女院は大納言佐とともに花摘みに山へ出かけていて留守だと言う。このやつれた老尼は、法皇の乳母の娘、阿波内侍(あわのないし)であったが、名乗るまで法皇は気づかなかった。阿波内侍は身の衰えを実感し、さめざめと泣く。やがて二人が山から下りてきた。女院は法皇の突然の訪問に驚く。法皇は亡き夫高倉院の父で舅にあたるが、平家一門を滅亡に追いやった張本人でもある。女院は、今の自分は尼になっているとはいえ、変わり果てた自分の姿を恥じ、ただ呆然と立ちつくす。阿波内侍が近寄って、女院の持つ花籠を受け取る。
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4.六道の沙汰(ろくどうのさた)
阿波内侍に促されて法皇と対面した女院は、涙ながらに先帝の菩提を祈る日々を語り、そして、これまでの数奇な半生を振り返る。それは、生きながら六道を体験した、得難いものであった。入道相国の娘として人々に仰がれ、何一つ不足のなかった華やかな日々、突然運命が暗転して一門都落ちとなり流浪する身になった惨めさ、その中で甥の清経が入水したのが、この世で初めて辛いと思ったこと。食べ物にも事欠き、喉の渇きを癒せなかった苦しい生活、一の谷合戦以後の愛する者たちと別れるばかりの日々、壇の浦で母と子を目の前で失い、中でも安徳帝が二位の尼に抱かれて海へ身を投げたこと。そして、皆が龍宮城にいると知った夢・・・。女院の六道めぐりの話を聞いた法皇は、涙にむせぶ。
※六道・・・生前の行いの善悪によって、人が死後に赴く六つの世界(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道)のこと。
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5.女院御往生(にょういんごおうじょう)
寂光院の鐘の音が日暮れを告げ、名残惜しく思いつつ御所へ帰っていく法皇を、女院はいつまでも見送っていた。法皇の車が遠ざかると、女院は泣く泣く御本尊に向かい、安徳天皇と平家一門の御霊のすみやかな成仏を祈った。やがて女院は病にかかり、大納言佐、阿波内侍の二人に見守られながら静かに息を引き取った。建久2年(1191年)2月半ばのことだった。女院に続いて二人の尼も極楽浄土に往生したということである。
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万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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(兼好法師)
(平重盛)
(建礼門院)
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