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巻第4(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第4-525~528

訓読

525
佐保川(さほがは)の小石踏み渡りぬばたまの黒馬(くろま)の来る夜は年にもあらぬか
526
千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波やむ時もなし我(あ)が恋ふらくは
527
来(こ)むと言ふも来(こ)ぬ時あるを来(こ)じと言ふを来(こ)むとは待たじ来(こ)じと言ふものを
528
千鳥鳴く佐保の川門(かはと)の瀬を広み打橋(うちはし)渡す汝(な)が来(く)と思へば

意味

〈525〉
 天の川ならぬ佐保川の小石を踏みながら渡って、あなたを乗せた黒馬が来る夜、そんな夜が、一年中ずっと続けばよいのに。
〈526〉
 千鳥が鳴く佐保の川瀬のさざ波のように、やむときもありません、あなたを恋い焦がれるこの思いは。
〈527〉
 来るとおっしゃりながらいらっしゃらない時があるのに、まして来ないとおっしゃるなら来られるとお待ちしません。あなたがそうおっしゃるのですもの。
〈528〉
 千鳥が鳴いている佐保川の渡し場の瀬が広く、渡りにくいので橋板を架けます。あなたがいらしゃると思って。

鑑賞

 大伴坂上郎女藤原麻呂522~524の歌に答えた歌です。ここの歌が、『万葉集』にあらわれる郎女の最も早い時期の歌です。525では、麻呂の歌(523)と同じく七夕の牽牛を暗示しつつ、滅多に訪れてくれない麻呂への恨みを歌っています。「佐保川」は、奈良市・大和郡山市を流れる川。作者の家は佐保山にあり、佐保川の北岸にあたります。「ぬばたまの」は「黒馬」の枕詞。「来る夜」は、字余りとなるため「来夜(くよ)」と訓むものもあります。「年にもあらぬか」の「ぬか」は希求の終助詞で、一年中であってほしいものだ。この歌は、巻第13-3313の「川の瀬の石踏み渡りぬばたまの黒馬の来夜は常にあらぬかも」の模倣かと言われ、前出の麻呂の歌(523)も巻第13の歌を模倣しているのは、単なる偶然か、それともお互いによる文芸的な遊戯だったのでしょうか。

 
526の「千鳥鳴く」は、冬の川辺の情景を象徴する言葉です。千鳥の鳴き声はどこか寂しげで、聴覚的に恋の物悲しさを際立たせる役割を担っています。「さざれ波」は、水の流れによってできる小さな波。上3句は「やむ時もなし」を導く譬喩式序詞。「恋ふらく」は「恋ふ」のク語法で名詞形。最後にこれを持ってくることで、自分の感情の持続性を強く印象づけています。この歌も、巻第13-3244の「阿胡の海の荒磯の上のさざれ波我が恋ふらくは止む時もなし」の模倣と言われます。

 
527の「来むと言ふも来ぬ時あるを」は、行く(来る)という約束さえ反故にされる現実を指摘しています。「来じと言ふを」の「じ」は打消推量・意志の助動詞で、、相手がはっきりと行かない(来ない)と言った状況。「来むとは待たじ」は、来るだろうなどと待つものか、という強い否定。結句の「来じと言ふものを」は、ダメ押しの一句であり、行かないと言っているんだから(待つわけないじゃない)という、開き直りにも似た詠嘆です。「こむ・こぬ・こじ・こむ・こじ」と「こ」を5連発しており、なかなかやって来ない麻呂への恨みだらだら、もしくは麻呂をからかったものとみえます。恨み歌でありながら、気分的に余裕の感じられる歌です。

 
528の「千鳥鳴く」は526にも登場した句で、寒々とした景観が、恋の切実さを引き立てます。「川門」は、川の両岸が近くなっている所。「瀬を広み」は、川瀬が広いので。「打橋」は、板を渡して自由に掛け外しできる簡単な橋。多くの場合、通ってくる夫を迎える時に、女が渡しました。「汝が来と思へば」は、あなたが来てくれると思うからこそ。「汝が来」は「長く」を懸けています。この歌は、麻呂の523の歌に和えたものと見られます。

 ここの贈答は遊戯性の強いもので、実生活や本心とは距離を置くものとする見方もあります。また、歌人の
尾崎左永子は郎女の歌について次のように評しています。「麻呂の歌に対して、じつにしゃれた答歌になっている。才女の面目躍如である。麻呂との間は、友情に似た絆で結ばれていたことを思わせ、たとえば家持に対する笠女郎のような執拗なひたむきさや、反対に紀女郎小鹿と家持の間柄のような淡白な戯れとも異なった、坂上郎女独特の『男あしらい』の巧さを感じてしまう。大らかでもの分かりがよく、しかも情感も豊かな、一種の大刀自の風格がすでに看取できると思う」。

 左注には次のような記述があります。「郎女は佐保大納言卿(大伴宿祢安麻呂)の娘である。はじめ一品(いっぽん)穂積皇子(ほづみのみこ)に嫁ぎ、とても厚い寵愛を受けた。皇子が亡くなったあと、藤原麻呂大夫が郎女に求婚した。郎女は坂上の里に住んでいた。そこで一族の者は坂上郎女と呼んだ」。「坂上の里」は、奈良市法華寺町西北付近の丘陵地あたりとされます。和銅8年(715年)7月に穂積皇子が亡くなった後、郎女は異母兄・大伴旅人の庇護下に入り、ひとまず佐保の大伴宗家に身を置き、やがて旅人の計らいによって坂上の里に住まいするようになったのです。

 ここでうたわれている「佐保川」は、平城京を縦断する川であり、都の人々にとって最も馴染み深く、『万葉集』に多く詠まれています。また、川沿いにある佐保の地は、当時のいわば高級住宅街であり、大伴氏の邸宅のほか、長屋王の別荘や藤原氏の邸宅があったといわれています。坂上郎女や藤原麻呂、そして家持なども佐保川沿いの道を往き来したことでしょう。
 


「郎女」と「女郎」

 『万葉集』で用いられている上代の女性の呼称には、郎女(いらつめ)、女郎(いらつめ)、娘子(をとめ)等があります。郎女、女郎は、身分の高い女性に用いる敬称で、娘子は一般的な女性の呼称として使われています。また、郎女、女郎は、高官のいる家の女性に対して使われますが、郎女は女郎より高い官位官職の家の女性に用いられています。

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古典に親しむ

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