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巻第4(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第4-700~702

訓読

700
かくしてやなほや退(まか)らむ近からぬ道の間(あひだ)をなづみ参来(まゐき)て
701
はつはつに人を相(あひ)見ていかにあらむいづれの日にかまた外(よそ)に見む
702
ぬばたまのその夜(よ)の月夜(つくよ)今日(けふ)までに我(あ)れは忘れず間(ま)なくし思へば

意味

〈700〉
 こうまでして来てやっぱりむなしく帰って行くのかな、近くもない道のりを苦労してやって来て。
〈701〉
 ほんのちょっと関係を持ってしまい、いつの日にかまた、よそながらでもお見かけすることがありましょうか。
〈702〉
 あの夜の美しい月が、今日まで私は忘れらることができず、絶え間なく思い続けています。

鑑賞

 700は、大伴家持娘子(おとめ)の家の門に着いた時に作った歌。「かくして」は、このようにして。「や」は、疑問。「なほや」は、やっぱり。断られるのではないかと来る道々予想していたが、その通りになったということ。「退る」は、貴人の許から退出する意で、相手に敬意を表して用いた語。「なづみ」は、苦労して。名門大伴家の御曹司として数多くの女性を魅了したプレイボーイ家持も、たまにはうまくいかなかったこともあったようです。家持を門前払いした娘子については、未詳。この歌と同時の作ではないかとされる歌が、巻第8-1596にあります。

 なお、ここの歌のほか、おもに巻第4に散在する娘子に贈る歌(691~692等)の中には、「亡妾挽歌」(巻第3-462~474)で家持がその死を嘆いている「妾」の、結婚前の相手として含まれている可能性が指摘されています。家持の内舎人時代に交際した若い女官たちの一人であり、郎女や女王のような高い身分の出身でなかったために、あえて名を記す必要がないと考えたのかもしれません。また、後に藤原仲麻呂の二男久須麻呂と家持の幼い娘との婚姻に関わる歌(巻第4-789~792)があり、この幼い娘とは、妾が生んだ子であろうと考えられています。

 701・702は、
河内百枝娘子(かふちのももえをとめ:伝未詳)が大伴家持に贈った歌。701の「はつはつに」は、わずかに、ほんのちょっと。「人」は、家持を指し、敬意から距離を取った言い方をしたもの。「相見て」は、男女関係を持ったことを意味します。「また外に見む」の「外に見る」は、親しく言葉を交わすのではなく、遠くから姿を眺める、あるいは他人として見かけること。中途半端な充足がもたらす、より深い飢餓感が歌われているものの、控えめな願いとなっています。

 
702の「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「その夜」は、前の歌の「相見て」の夜。「月夜」は「月の夜」ではなく「月」そのもの。「間なく」は、絶え間なく。「し」は、強意の副助詞。娘子は、家持を思う心を、その夜に見た月に転じて、忘れないと言っています。家持と一たび関係を持ったものの、身分が甚だしく隔たっていたためか、再びは逢い難いとして、つつましくも純粋な訴えの気持ちをうたっています。まるで片思いのつぶやきのような歌であり、『万葉集』の中に可憐な存在を光らせている百枝娘子ですが、家持の返歌はありません。

 なお、702の「間なくし思へば」の原文は「無間苦思念」となっており、その用字に「苦」と「思」を用いているのは、「苦しい思いをして」絶え間無く相手のことを思っている情感が示されています。当時の人々は、歌を詠むに際し、音仮名であっても、漢字の字義を利用して様々な工夫をしていたことが窺えます。
 


大伴家持について

 718?~785年。大伴旅人の長男で、旅人が50代のときの子。母は正妻の大伴郎女ではなく庶子でしたが、名門大伴氏の嫡男として育てられました。旅人に従い、筑紫の大宰府にも滞在し、そこで接した山上憶良の影響を大きく受けています。この憶良と、親代わりとして家持の面倒をみた叔母の坂上郎女が、家持の直接の歌の師といわれます。

 少壮時代に内舎人・越中守・少納言・兵部大輔・因幡守などを歴任。天平宝字3年(759)正月の歌を最後に『万葉集』は終わっています。その後、政治的事件に巻き込まれましたが、中納言従三位まで昇任、68歳?で没しました。

 家持の作歌時期は、大きく3期に区分されます。第1期は、年次の分かっている歌がはじめて見られる733年から、内舎人として出仕し、越中守に任じられるまでの期間。この時期は、坂上郎女の影響が見受けられ、また多くの女性と恋の歌を交わしています。

 第2期は、29歳から34歳の、746年からの5年間におよぶ越中国守の時代。家持は越中の地に心惹かれ、盛んに歌を詠みました。生涯で最も多くの歌を詠んだのは、この時期で(全作歌数約470首のうちの約220首)、歌の数ばかりでなく質も充実しており、家持の才能が開花した時期でもあります。

 第3期は、越中から帰京した751年から、「万葉集」最後の歌を詠んだ759年までで、藤原氏の台頭に押され、しだいに衰退していく大伴氏の長としての愁いや嘆きを詠っています。

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